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言葉のない練習 [音楽の話題]

高校生の頃、文化会館にある有名な日本人指揮者がシベリウスの交響曲2番を聞きに行きました。友人達はあまり良い演奏ではなかったと言いいました。私も同感でしたが、なんかその指揮者はもっと良い演奏をするという期待感がありました。応援の意味で、演奏が終わったら声を出しました。

その数年後、学生のアマオケに入団しようとしたら、次の公演はその指揮者でシベリウスの2番をやると聞いてびっくり、練習最初の頃の弦だけの練習に、なんとその指揮者が来ました。アマオケの弦練に来るというのは今では考えられないくらい珍しいことです。その時に最初にやったのはモーツァルトの40番の第2楽章でした。1年目は2nd Vnになるのですが、たまたまトップサイドに座らされ、目の前の棒を見ながら弾きました。すると、何も注意を言わずもう一度、と言い、それから何度も出だしの部分を繰り返しました。何か注意はされたかもしれませんが、無言で何度も繰り返し弾かされたことが強く記憶残っています。  

指揮者や共演者が、言葉でこうしてほしいということは普通にあることですが、そういうことを言わずに繰り返しやることもよくあります。プロならばもちろんですがアマでも、演奏することでその時の修正点を見つけます。特に初めての共演ともなれば、お互いの音楽のイメージが異なったりするので、合わないことなどは普通にあります。よく聞いて合わせる、という言葉がありますが、これは言葉通りの意味ではなく、聞いて修正することを意味しています。厳密に言えば、聞いてから次の音を合わせるのでは必ず遅れます。合わせるのではなく修正というのが厳密な意味です。だから合っているときは、聞いて合わせているのではなく、修正もなく、一緒に演奏しているというイメージです。

最近は言葉で説明することが増えているのではないかと思います。またそれによって、アマチュア演奏家はあまり聞いて修正せず、言葉の説明や指摘を待つという姿勢になっています。自分で自分の演奏の修正をしていないのです。これは演奏家として自立していないことを意味します。それは依存していることで、常に先生から指摘されないと上手にならないと勘違いしており、さらに指摘がなければ問題ないという勘違いもしているのです。こういう自立していない演奏家は上手になりません。

アイドルグループでは、卒業という言葉が使われます。しかし、卒業とは何かを習得することで生じることであり、アイドルグループから抜けることは卒業とは言えません。こういうふうにして間違った言葉遣いをすることで、その言語はいわゆる堕落し、本来の意味をなくし、あるいは曖昧にし、文化を破壊して、人々の意思疎通だけでなく、思考もがうまくできないようになります。学校の国語の授業で言葉を正しく使いましょう、と教わったはずなのに、多くの人はその意義や価値を理解できず、好き勝手に言葉を使っているのです。さて、卒業の意味にはもう一つの面があり、それは自立です。アイドルグループから卒業するということは、この面については、共通しているとは言えます。

自立した演奏家になる、ということができれば、言葉による説明や指示を求めるのではなく、自分で演奏の修正をすることができます。だから、練習することでどんどん上手になります。もちろん、勘違いしてはいけませんが、自立していることと、先生に教わることは全く別のことです。自立とは全く関係なく、別に段階というものがあり、自立はその一つの重要な段階です。そのために先生に習うのは効率よく、自立した後でも普通にあり、逆に言えば子供の早い段階からも自立している場合があります。自立せずに先生に習うと、指摘されたことだけしか修正されません。自立することで自分の抱えている問題に対して自分で対処する姿勢をもっているので、練習することで修正でき、どんどん上達します。それが人から言われなければわからなければ、指摘された問題点以外は残り、新たに発生する問題にも気づかないので、先生の最低限の指摘だけでは、ほとんど上手しません。しかもその指摘は時間とともに忘れてしまったりもします。

自立した演奏家同士ならば、ある程度は言葉なくても繰り返し練習で修正ができます。そういう練習ができるかどうかで、自立しているかどうかの判定にもなるでしょう。

最初の話も戻ると、この有名な指揮者の方は、未熟な私達を、自立した演奏家として扱ってくれたのかもしれないと、今になると思うのでした。
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反射的動作の練習 [音楽の話題]

世界卓球で、日本選手と中国選手の試合は素晴らしいものでした。そのとき、ここぞ決め手というところに限ってミスが連続するなどがあったりしました。相手の球が普通と違う回転をしているなどもありますが、実は肝心あところのミスというものは多くのスポーツでよくあることです。このミスの仕組みについては、スポーツ科学でもよく知られていることではないかと思います。

人間の動作は、動作をやると決めて行う意識的動作よりも、動作そのものについて意識しな無意識的な反射的動作の方が正確で、しかも速いのです。このことを明らかにするために、アメリカの大学のある先生は、学生などを相手におもちゃのピストルで西部劇の早打ちゲームをしました。つまり、決闘の場で、ヒーローは向かい合った相手にいつでも好きな時に銃を抜いてよいと宣言します。そしてその結果はヒーローの方が早く抜いて撃つのです。ヒーローはそれだけ抜くのが速いのだと思えますが、速いことはもちろん速いのですが、実はそうではないのです。大学教授は実際に学生相手に同じことをして、その通り、一度も負けなかったのです。学生は撃とうとして抜くのですが、結果負けなのでした。大学教授は、相手が銃を抜こうとする最初の動きを見てから反射的動作として銃を抜いたのです。その方が速かったのです。

卓球に限らず、スポーツでは普段の繰り返し練習で反射的な無意識的動作を行なっていますが、しかし、試合ではここは決め手を出すぞと、ついうっかり意識的動作にしてしまうことで、ほんの少し正確さが劣ったり、動作が遅くなってしまいます。それによって決め手でミスをすることになります。調子のいい時のように、普段の練習通り意識せずに反射的動作をすれば成功します。練習では単に無意識の反射的動作の繰り返して無意するだけでなく、それが意識的動作にならないように、その時の意識のコントロールも練習する必要があります。

音楽以外の話が長くなりましたが、上記の話はスポーツだけでなく、楽器演奏でも同様です。私が書いた本の中で、演奏においての、この意識的動作と無意識的動作の話があります。おそらくこの話は私しか今の所は文字にしていないと思われますが、そういう練習方法自体は、いわゆる繰り返し練習として、既に行われています。ただ、練習のポイントの置き方、練習の捉え方は、異なっていることが多いと思います。繰り返し練習はまずはテクニックを安定させるために行いますが、その後も単に慣れるためや暗譜するためなどだけでなく、積極的に、無意識的動作にして正確さを上げるため、に繰り返し練習をするといいです。さらに、本番でこの部分をつい意識的動作にしてしまうことがあるので、この繰り返し練習では、無意識的動作を意識的動作にしないように、反射的動作するようにします。例えば前の音からの反射的動作、あるいは共演者の音に対する反射的動作、あるいはアルテの形を取ってからのは反射的動作なども可能でしょう。反射的練習のポイントは意識のコントロールの練習です。
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ポジションで迷う問題 [音楽の話題]

楽譜に書いてある指番号を見ると、例えば、3rdポジションから2ndに下りて、また3rdに上がる、ように指番号が書いてあって、その通りポジション移動している人はいると思います。小指を伸ばして半音上の音を取ることは普通ですが、私のように逆に人差し指を伸ばして半音低い音を取ることをしている人もいるのではないかと思います。同じように上記の2ndポジションの指番号のところは、3rdポジションに置いたまま取ることができます。これは訓練は必要ですが、ポジション移動をしないのでかなり便利です。しかし、なんとなくその指の使い方はポジションという奏法から離れていると考え、使うのを逆に避ける人もいると思います。また、使っていいことかどうか迷う人もいるでしょう。

ブログ下段に置いたリンクのブログにpivotingという技術について説明があります。フィンガードオクターブや10度の重音を取る段階あたりから、使う感じでしょうか。前述のようにポジションをかなり自由に考えれば、必要に応じ使うことは一つのコツと言えます。個人的には、ワンポイント的に、例えばベートーベンのソナタ7番の第1楽章の103小節目、バッハシャコンヌの85小節目、メンデルスゾーンの協奏曲の第3楽章あたりで使っています。

ポジションでは別の問題もあります。たとえば2ndポジションですが、シャープ系とフラット系の調で2ndポジションの位置を微妙に変えている人はいませんか。スケール練習で確認できます。シャープ系では少し上げているのです。こうすると2ndから4thへのポジション移動などはかなり楽になります。これもこの事実踏まえて使うのはとても便利です。私は意外と2ndポジションは一つで済ませたく、低い位置を優先しています。

https://www.dearviolinstudents.com/ja/2020-01-28-164955/615/?unapproved=453&moderation-hash=4393c43f00949381fae2d084572ea81f#comment-453s
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PCMレコーダーあれこれ [音楽の話題]

ご存知の方は多いと思いますが、PCM録音機のRolandのR-09が出た時には、普段から練習を録音している人のほとんどはこれを持っていたと思います。SONY、TASCAM、ZOOMというメーカーが出している中で、ダントツに優れた性能を持っていたからです。それが周波数特性です。内蔵マイクで録音した時に低音が20Hzまでまっすぐに伸びているのです。他社メーカーも仕様を見ると20Hzまで伸びていますが、それはLINE入力の場合で、内蔵マイクでは100Hzですでに落ち始めており、オーケストラやピアノでは普通にある50Hzの低音はよくても6dBほどは低いレベルになるのでした。これは低音が録音されていないと感じるのに十分な差です。ノイズレベルが高いという欠点を指摘する声がありましたが、50Hzで6dBダウンするローパスフィルタをかけるとほとんどノイズレベルは気になりませんから、これは周波数特性を伸ばすことで生じた欠点だったのです。多くの演奏家、特にピアニストはやはり低音がないと音質は全く変わるので、ノイズより周波数特性でした。

私もすぐにR-09を使い始め、録音ミスを防ぐためにセカンドにTASCAMを使ったりしてました。R-09はデジタル部とアナログ部で回路を基板上で分けるなどの工夫があり、音質は良く、今の安いハイレゾ録音には負けませんし、低域が伸びている分、まだまだこれで十分です。しかし、一度バッテリー切れから起動がおかしくなった時があり、そろそろ買い替えを考えなければということになっています。あれから10年以上たった現在は、ハイレゾ全盛でPCM録音機の性能もかなり良くなりましたが、やはり一番気になるのは、この低域の性能です。後継のRolandはR-07がハイレゾ性能で、低域の特性も従来と同じように20Hzまでありますから、まずはこれが第一候補と言えますが、ネット評判などでは、このことを書いているものは全くありません。実はR-09のときも、いわゆる評として、実際に測定などもして、比較しているサイトもありましたが、ほとんどこの低域の特性は無視されたものばかりで、私などのユーザーがいいよと書いているだけなのでした。むしろすぐにわかるノイズレベルが高いから薦めないという評もあったくらいです。低域の伸びについて、R-07の特徴であると知っている人は、ほとんどいないように思えます。もちろん、個人の情報に限らず、それなりの情報サイトであれ、このことは同じです。

購入をためらっているのは、一度不具合になったとはいえ、相変わらずR-09は健在であることと、R-07自体が既に発売からだいぶ経っており、やや古いことです。Rolandがさらなる新機種を出すとは思えませんが、TASCAMも安くて良いのですが、低域を伸ばすとすると、肺臓マイクではなく、外部マイクを購入する必要があり、予算オーバーもありますが、何より準備やセッティングが面倒です。また、TASCAMなら買い急ぐこともないでしょう。結局、少し様子見、することにしました。
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歌の楽器、バイオリン [音楽の話題]

ズーカーマンの、日本人は歌わない、という言葉で、思い出したことがあります。
私に付き合って一緒に演奏にしてくれるソプラノの方が、是非、歌曲は最初に歌で聞いてほしい、と言っていたことです。私が歌曲を演奏することもあり、それを聞いていたりしているので、やはりその演奏では歌が足りないと感じたのかもしれません。歌よりも表現力が足りないのは自覚ありでした。

確かに、声楽とバイオリンは異なると勝手に思い込んでいて、歌うようには演奏せず、弦楽器の曲として演奏していたのです。もちろん、日本で売られている多くの名曲集のようなバイオリン楽譜の中の歌曲からの編曲は歌とは関係ないスラーなどがあって、フレージングも異なり、完全に声楽と弦楽器を別のものとしているのですが、だからと言って、ここから演奏では別の演奏にして良いということはありません。勝手な解釈です。もちろん、私は声楽と同じ楽譜を演奏する場合は、そういう編曲ではなく元の声楽に則ってフレージングしてましたが。それならもっと悪いことになります。

有名な「歌の翼に」の編曲バージョンを、久しぶりに弾いてみました。声楽と同じように歌うことを心がけて、そうすると全く違う景色が見えてきました。やはり歌が足りなかったと思いました。私は旋律を弾くことが大好きで、おそらく他のバイオリニストと同じく、自分の弾く旋律は自分独自の演奏になり、聞き飽きた人にも聞いてもらえると思っていましたが、それでさえ足りないものでした。つまりどこかで声楽とは違うから歌い方も違うと勝手に思い込んでいたのです。ズーカーマンが言っていた、バイオリンは弦の楽器ではなく、歌の楽器だという言葉はまったく適切な言葉なのです。

また、もう一つ思い出したことがあります。
昔、ある有名なバイオリニストが外国でサン・サーンスの第3番の協奏曲を演奏した時です。翌日、新聞に、第二楽章の美しい旋律をなんてつまらなく弾くだと評が載ったそうです。そのバイオリニストは評論家は楽譜にsimpliceと書いてあるのを知らずに、こういう評を書いたのだろう、と言っていました。若かった私の考えはかなり積極的で、simpliceと書いてあるならば、聞く人がそう感じるように弾くことはできないのだろうか、というものでした。ウィニアフスキーの第2番の協奏曲の第二楽章の冒頭も同じくsimpliceです。そして私の大好きなイダ・ヘンデルはそれを美しく歌っています。

サン・サーンスやウィニアフスキー、このsimpliceを美しく歌えたら、初めて、歌う楽器のバイオリンを弾いていると言えるのだろうと思います。


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ズーカーマンのアジア人固定観念問題 [音楽の話題]

昔のことであまりよく覚えていませんが、日本のTV番組でアイザック・スターンだったのではないかと思いますが、日本の歌を弾きました。その時の演奏は日本人が弾くのと変わりない、つまり外国人が弾いているような違和感が全くありませんでした。日本人の音楽家、小沢征爾さんだったか、あるいは他の方だったか、素晴らしいですね、と言っていました。これは、スターンにとっては当たり前の話だと思いますが、音楽はどこの国とか関係ない、共通の文化ということがわかる話です。

最近、オンライン公開で行われた?ズーカーマンのマスタークラスで、ズーカーマンが韓国と日本の演奏家についての固定観念を言い、それは無思慮で攻撃的な文化的偏見、と訳せば良いかと思いますが、問題になりました。詳細は以下で見ることができます。

https://www.violinist.com/blog/laurie/20216/28825/

二人の若手の演奏を聴いて聴いてこう言いました。
It's almost too perfect, I mean that as a compliment, Think less about how perfect to play and to play together, and more about phrasing. A little more vinegar - or soy sauce!

そして笑いながら、いわゆる笑顔ではなく声を出す笑いですが、こう言いました。
More singing, like an Italian overture.

そして、演奏を続けさせて、もっと表現するようにと言い、
Too boxy - have fun!
演奏についてビブラートや移動については完璧で、手本になるくらいなのですが、こう繰り返します。
The violin is a singing instrument, not a stringed instrument.
さらに、こうも言っています。
Sometimes if you have a question about how to play it, sing it,

しかし、この後が問題のところで、こう言いました。
I know in Korea they don't sing.
そして、生徒がKorianではなく、半分はJapaneseだと答えると、
In Japan they don't sing either.
と言い、アジア人の真似をしたようで、
That is not singing. Violin is not a machine.と言いました。
最後に
In Korea they don't sing, "It's not in their DNA
と言いました。
もちろん、最後は二人の演奏者から笑みはなく、それに対してズーカーマンは期待している言葉を送ります。
問題になったので、ビデオは非公開となりました。また、ズーカーマンは謝罪をしています。

このところアジア人については、一部のアメリカ人は差別を行っているので、これはとても大きな問題になったようです。もちろん、生徒二人が不愉快になったであろうことは間違いありませんから、そういう講義をすることで、先生としての質が問われますが、何より問題を目の前の生徒ではなく、一般論を言ってしまうところに、既にアジア人差別があると言えます。
最近は韓国人のコンペティションでの上位入賞は当たり前のようになっているところがあります。テクニックが完璧であると減点のしようもなく、コンクールでは優勢になることは普通でしょう。そして、そういう参加者が多いとなると、固定観念になる可能性があります。そんなことに、ズーカーマンも人間ですから、いわゆる問題を感じていたかもしれません。それでつい本音が出てしまったのかもしれません。アジア人では最近は、Chloe Chuaという若手有望株もいますから、韓国でも日本でもありませんが,、一般論にしてしまうと偏見です。ユダヤ人は商売がうまいから、たいして上手でもないバイオリニストが有名になって稼いでいる、というのが偏見であるのと一緒です。

あるアメリカ映画で、バイオリンを弾く子供に対して、ロシア人が、もっと泣かなければだめだ、と言っていました。映画でフィクションですが、バイオリンは泣くものと考えているロシア人は普通なのだ、と思ったものです。ズーカーマンの固定観念よりも、バイオリンという楽器についての話がとても興味を持ちました。
海野義雄氏がバイオリンは人の声に近い、と言っていましたが、そんなに声には似てないぞと思ったものですが、音程を自由に取れるから似ているわけではなく、それは歌うものだからなのです。
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ハイティンクとウィーンフィルのブルックナー [音楽の話題]

テレビは見たい番組はだいたい録画して見ます。先日、経済活動ではなく、法律によって受信料を取る、つまりは税金と全く同じである放送局、過去にはこの放送局の裏切り行為によって私は損害を受けましたが、その番組録画で2019年のザルツブルグ音楽祭のハイチンクとウィーンフィルによるブルックナーの交響曲第7番を聞きました。ハイティンクが90歳で現役を引退する直前の演奏です。

こんな演奏があるのかというくらい素晴らしい演奏。どこがいいというよりも演奏からひしひしと伝わってくるものは、音楽以外の何物でもないのでした。録画でこんなに素晴らしいと感じるとしたら、本番はどんなに素晴らしかったのか。この演奏を聞くだけで、ああ、この時のために今日まで生きてきたんだ、と言っても言い過ぎではないくらいです。とにかく、ここには素晴らしいブルックナーがあります。だいたい、他のことをしながら聴き始め、おおと感じると、止めて真剣に聞き始める、というのが普通なのですが、最初の上昇音型のメロディのバイオリンを聞いたときに、びっくりして直ぐに戻り、最初から集中して聞きました。

演奏で一番大切なことは、決して完璧なテクニックではありません。その音楽にある重要な価値はテクニックだけではないからです。いわば音の時間的変化そのものに、最も偉大な価値があります。それを見つけたら、もう音楽から離れることはできません。
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昨日が誕生日のストラヴィンスキー [音楽の話題]

録画していたものを見ていたら、ストラビンスキーの言葉というのが紹介されていました。

なにかを創造するには、心を衝き動かす力が必要だ。
心を衝き動かす力のうちで、
愛にまさるものがあるだろうか。

COVID-19についてはほとんど去年の段階で書いていますので、久しぶりに音楽の話題を取り上げます。
昨日の6月5日はストラヴィンスキーの誕生日。一日遅れてしまいました。それとは関係ありませんが、上記の言葉について、認知科学者と称する方や指揮者の方が、ああだこうだと言っていました。いつも思うのは、専門家の方は、一部全然専門知識が足りない方も多いですが、それは別の話として、一般常識については、びっくりするくらい知らない人が多いです。ですから、上記の言葉について感想を聞くと、そんな程度、とびっくりしてしまいます。
愛とは何か、と問うと百人百様の答えが返ってくるでしょう。愛とはこうだ、と言うと、いやそんなものは愛ではない、などという反論はよくある話だと思います。上記の言葉について、お二人は恋愛のことだと思っていて、愛とはそういうものとは違う、と言いたくもなりますが、そもそも恋愛以上に人を突き動かす力がないのは、まるで思春期真っ最中のようです。
コロナ問題でもわかるように、専門家は要注意で、専門以外のことは素人より知識もない、というのが今の日本では普通なのかもしれません。

今から2000年前にイマヌエルは愛について説きました。キリスト教とは関係なく、イマヌエルは愛について知ることは非常に重要なことであると考えていたのです。しかし、現在、単に恋愛しか思い浮かばない人もいて、愛について色々な考えが出てくるということは、愛とはそういういろいろな言葉で表される、ということではなく、単に、今だにあい張替sれていない、と言えます。私はキリスト教徒ではありませんが、ルカによる福音書10章25節~37節に「善きサマリア人」の話があり、隣人を愛するという言葉の隣人とは誰かの説明がされています。追い剥ぎの襲われ、道端で瀕死状態の人を、ある見ず知らずのサマリア人は通り過ぎずに助けました。そして、サマリア人はけが人の隣人と言え、隣人を愛しなさい、と説明されています。

キリスト教徒でないならば、ここからいろいろに考え、やはり愛とは何かについてここからも様々な考えが出てくるでしょう。単純に思いやりと考えることは決して間違ってはいません。隣人を愛せよ、という教えがあるのは隣人に対する思いやりがないからです。しかし、このように言葉を置き換えることによって、愛は容易に勘違いされてしまいます。言葉による置き換えではなく、愛についての説明の方が重要で、説明をそのまま理解することができます。
サマリア人の隣人へ愛によって、けが人はきっと助かったでしょう。愛がなければ死んでしまったでしょう。愛は存在させる力がある、と私は思うのです。そして、それが創造する力である、というストラヴィンスキーの言葉は、まさにその通りと思ったのでした。
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録音では聞けない部分 [音楽の話題]

このところいくつかの室内楽の演奏を、テレビの録音で聞きましたが、結構気になることがありました。

室内楽ともなると、今は奏者一人にマイクを近く立てて録音したりしています。ところが、特に弦楽四重奏曲などでは、各奏者の音をミキシングするのと、全体を一対のステレオマイクで録音するのでは全く違った響きになります。もちろんバランスなどが異なるのは当然ですが、それだけではありません。昔、オーケストラの録音でも理想的なのは一対のステレオマイクで録音するのが一番音が良い、と言う人がいました。実際には、特にライブなどでは、そのマイクの位置が難しく、吊り下げた舞台のマイクではややバランスが異なることがあります。

パート毎のマイクで録音したものをミキシングすると、当然のことながらマイクの位置が異なるために、音の位相が変わってしまいます。もっとわかりやすく、大げさな例で言うと、響きを合わせるためにビブラートまでも合わせる場合があります。一対のマイクならビブラートが合ったそのままを録れます。しかし、マイクを別にすると、微妙にビブラートの山の位置が異なります。それによってミキシングすると非常に微妙にずれたビブラートの響きになってしまうのです。しかも通常は一つのマイクはその奏者だけでなく、別の奏者の音が弱くずれて入るので、ミクシングの場合にはエコーのように入ってしまうことになり、響きが全く異なるものになってしまうのです。

そういうこともあり、特に弦楽四重奏では全く本番と異なる響きになることが当然となるでしょう。ですから録音の響きは、本番の生演奏とは異なるものとなります。しかし、そのことを考慮しても、いわゆる響きの悪い弦楽四重奏団というのが案外多く存在しているのではないでしょうか。例えば、あちこちから集まって副業のように活動しているグループや、新しくできた四重奏団などは、たとえコンクール歴がすごいものであっても、あれってことになりがちです。当然と言えば当然ですが、定評のある弦楽四重奏団の録音を聞くと、録音でも全く音なる響きをしています。こういう老舗の四重奏団は絶対に本番の生演奏を聴きたいものです。彼らの響きは本当に素晴らしいものです。それは一朝一夕でできるようなものではありません。ですから、逆に言えば、若いグループや即席のグループで綺麗な響きになることはなくて当然なのでしょう。

アマチュアでも弦楽四重奏をして楽しむ人は多いと思いますが、是非、響きの美しさを求めてみたらいいと思います。特に最初や最後の和音から始めるといいと思います。大事なことはピッチをどうするかなどの音程よりも音量バランスです。そして、傾向としては、間違いなくチェロは音量が大きすぎるので、少し控えてもらうといいです。おっと、その前に、フォルテで不必要なものがないきれいな音を出す練習を十分にやっておきます。
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その先を目指すこと [音楽の話題]

Gackt氏は、一度来てコンサートを気にってくれた人が、次に来るときには前回以上を期待する、だから常に前回以上をやらないとダメだ、と言っていました。小澤征爾氏も、ボストン響時代のことを、素晴らしいオケでも常に次を目指してやらないといい演奏はできないと言っていました。以下は、そういうことを思い出してしまった話です。

N響の定期演奏会はテレビでも見ることができますが、パーヴォヤルヴィ氏がマーラーについて述べていて、字幕とナレーションでは、明確に自己表現をすることが必要だ、となっていましたが、本人の発言はneed to exaggerateであり、私の拙い英語力ではありますが、この訳はは完全に間違っています。クラシック演奏においては、楽譜から読み取ったことを表現することが大事で、その際に演奏家によって把握する内容とその表現はかなり異なるものですが、それは自己表現ではありません。自己表現という言葉で表現されるものは一体なんなのかを考えると、クラシック音楽においては、自分の解釈を表現することとなるのしょうが、解釈というものは、楽譜にないものを持ち込むことをも意味していて、そうでない場合は解釈とは言いません。つまり、ヤルビイ氏の英語をそう訳すのは間違いを越えて、演奏に対する偏見を持ち込んでいるのです。さらに、マーラーの交響曲5番の冒頭のトランペットの独奏部分で、彼が棒を振らないことを、この自己表現に関連づけていましたが、指揮者はオーケストラをまとめることが仕事であるなら、これは当然で、前述の発言とは無関係と考えられます。

さて、ここからが本題ですが、実際の演奏では、冒頭のトランペットはタクトに合わせて体を振って演奏しており、これだと長い音符の長いという表現ができないはずで、あれ、という感じでした。それを見た人は長いという理性的判断はできますが。続くバイオリンのメロディは長い音符と短い音符の強さが異なり、つまり、下手な市民オケではよくあるように、短い音符が弱くて聞こえにくいのでした。これも初歩的な事なのですが、後に出てくる管楽器による同じメロディの部分ではきちんと聞こえてきたので、指揮者の指示ではないようです。4楽章ではルバートはあたり雨ですが、伸び過ぎることが多く、タクトが感じられず、まるで酔っ払いが弾いているような演奏でした。全体的には、もちろんフォルテで威勢の良いところは安定した技術で素晴らしいのですが、フレーズとフレーズのつなぎ目が不自然な箇所が多く、イライラする演奏でした。録画でしたので、もう聞くのやめようかと思ったくらいです。そして、これがN響の現在の実力かと思って、冒頭のことを思い出してしまいました。

演奏後はブラボー(ということは、厳密に言うと、単数形でヤルヴィに対する賛辞になりますから、オーケストラも含めるならブラヴィーが好ましいですが,。これが広まるといいと思います。ブラヴォーサービスの方々は是非ご協力を)の大拍手でした。録音では気になる部分も、生演奏では響きに注意が向いたりしますから、全く違う印象になることは当たり前で、これは当然といえば当然です。本来ならば録音ではなく、生演奏を評価すべきなのだとは思います。
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