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勝つことに専念してはいけない [偉そうな一言]

日本のアニメにはつまらないものもありますが、びっくりする内容で、大変面白いものがあります。今度映画上映されるからか、深夜にやっている「ツルネ」には驚きました。ややネタバレがあります。

高校生の新しく作られた弓道部が大会で思った成績を出せません。コーチは勝つことに専念してはいけない、ということを生徒に言うのです。高校生の大会はとにかく的に当たった数で点数が決まるので、それ以外の弓道のなんたるかというか、形などは点数には関係ありません。そして強豪校では、構えたらすぐに射る生徒もいたりします。最低限の形があればいいのです。この強豪校の部員からけしかけられて、主人公の高校は思っていた結果を残せないので、勝とうとするなと言われるのです。

これは勝負事ではなく、芸事でも似たようなものがあります。点数などを競うのではなく、いかに上手かを競う芸事、音楽ならコンペティションでは上手に弾けばいいのだから、という話になりますが、明確な判定基準があるスポーツなどと違って、芸事では上手を目指すこと自体は悪いことではない、という理屈もありそうですが、上手というのは点数と違い、人により基準が異なります。それは素人だけでなく、審査を行う先生でもあります。また、音楽は広い意味の感情、感性に訴えるものなのに、上手ということは理性的判断であり、初めから理性的判断となる上手を目指しても、それは目標が間違っているのです。コンペティションで良いとされても、本当に良い演奏なのかは別問題なのです。

しかし、運動競技では点数を高くしようとすることがなぜいけないのか、というのは、アニメを見て各自がその理由を判断してもらうといいと思いますが、弓道では、点数を求めることは意味がありません。弓道の価値は的中を目指しながら、やはりそこよりも別のところにあります。山登りでは山を登るという目的とは別のところに山登りの価値があるのと同じです。最近は、この違いに気づかない人が増えているように思います。勉強は点数が取れればいい、という観点から勉強することで点数が取れるようになります。従来は、塾はそういうことをしているという批判がありましたが、今は教科書自体、学校の勉強自体がそうなっています。物事の価値をどう考えるかは自由なのですが、そういう勘違いしたままで良い、という風潮が全体にあり、昔は反対でどこまで行っても自分の理解はまだ未熟である、というのが当たり前だったのとは全く反対になっています。

さて、お笑い芸人が、こういうことを言っていました。ボケとつっこみという技法がありますが、番組で予期しないようなボケを言い、それを別の優秀な芸人が突っ込んで大笑いになる、このとき突っ込んだ方だけでなく、ボケた方も評判良くなるのですが、その二人は普段から一緒に仕事をしているわけではなく、そうなるとボケの方が得をします。なぜならツッコミを意識せずめちゃめちゃなことを言っていけるからです。さらにこんなことを言っていました。お笑いの正統な方向でお笑いを取るグループがいるから、今までにないめちゃめちゃことをやっても評判を取れる。確かに今は受ければ良いという風潮があり、笑いの価値、笑いが精神に与える左往とは何か、ということがなおざりにされているところがあります。

音楽でも、お客さんに喜んでもらえるように演奏する、と言う人はいますが、これはお客さんが喜んでもらえることを目標にしていることを意味しているわけではありません。お客の満足を目標にすることは、商業主義に直結しています。ですから、チケットが売れることを目標にするように変わり、チケットが売れることでお客は満足していると判断するようになります。こういうことは、音楽の持つ価値を無視しており、その結果、現在、音楽本来の持つ影響力が無視されたものがかなり多く見られます。

本当に価値あるものの、その価値の全体を知るには一生あっても足りません。しかし、弓道であれ、音楽であれ、一生かかってその道を進めば、それはその価値を少しずつ人々に広め、また自分にもその価値が少しずつもたらされます。それは本当に素晴らしいものだと思います。
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コロナ感染工作に注意 [社会問題]

ハコヅメというアニメがあります。もう終わってしまいましたが、降板勤務の婦人警官の話で、とても面白かったです。そして、市民に対する姿勢は、私が一度世話になった警察官とは全然異なるものですが、警官の仕事の大切さや大変さが想像できます。事故現場を普通に受け入れられる人間は少なく、それで辞めるのは普通のことで、それができるのが警察官だとか。知らないことが多いことにきづきました。

ウクライナで戦争していますが、それに対して武器を送る国や一方的にロシアを非難する人々がいますが、戦場のことを全く知らない人々がそういうことをしています。戦争は殺し合いをすることで、さらには捕虜などへのリンチ、婦女子への暴行も行われます。日常生活の中でそういうことをすることが悪いことだとわかっているはずなのに、戦争という言葉によって、人の殺し合いが正当化されています。戦争に駆けつける傭兵団は日常生活ではできないそういう悪事が堂々とできるから、そこへ行きます。権力を使い、その戦争を仕掛ける人々がいるわけで、戦場に向かわせる兵士は、自分ではないどうでもいい人間達で、自分は権力を持つにふさわし特別な人間と勘違いしていて、ずっと安全なところにいて、特別なワインと豪華な食事を毎日楽しみながら、戦争をさせているサイコパスです。
話し合いで可決できない問題とは一体なんでしょうか。国を守るにはどうしたらいいか、それをきちんと考えれば誰でも同じ結論に至ります。

前置き長くなりましたが、ここからタイトルの話です。
日本でのコロナ状況は、一時期、各県で感染者ゼロとなったのに、その後の水際対策が全く漏れ漏れのひどいもので、海外から入ってきたコロナで感染が広がりました。ところが、何も状況に変化がないのに、マスクは不要と言い始めました。感染経路のテータを分析したわけではなく、単に暇でやることがないから、自ごとをしていないことを誤魔化すためにそういうことを言い始めたのです。行政の裏にいる専門家は、感染症の専門家ではなく、感染工作を行う専門家です。感染がある方が税金を自由に使え、政府への批判もなく、都合がいいのでしょう。絶対に行政と感染工作専門家を信じてはいけません。アメリカのCDCもそのデータは一桁少ないことがわかりましたし、ワクチンに否定的なことを言う専門家にはメーカーから賄賂の話があったことも報告されているので、ワクチンメーカーや行政自らがワクチンの危険性と効果が薄いことを認めてしまっています。コロナについても嘘は行政と専門家集団から発信されています。

注意事項:
1)外では距離があっても無風でない限り、マスクを外してはいけません。風下は感染危険性が高いです。
2)子供達はもともとマスクは危険です。二酸化炭素は毒ガスであることをしならければなりません。ですから、マスクをつけっぱなしにするのではなく、適宜外してしばらく新鮮な空気を呼吸し、それからまたつけるようにします。
3)室内で距離があり、会話がなくてもマスクを外してはいけません。まず、換気をしているところでは、外の風と同じで換気の出口方向にいればウイルスがやってきますから危険です。また、会話がなくても咳などが出てしまうことがありますが、それで感染の危険性が高くなります。このことを考慮しないこと自体、ありえません。感染工作専門家の話は嘘です。
4)行政と感染工作専門家は感染させるために、危険な潜伏期間を短く設定しています。実際の潜伏期間はもっと長い場合がありますから、3週間以上、場合によっては3ヶ月注意します。また、治療が終わっても体内にはウイルスが残っている場合があるので、これも同じく3ヶ月間は人との接触を減らすようにします。
5)首相はワクチンは効果がある、と言いましたが、これは嘘です。欧米ではワクチン接種した人が感染しており、ワクチンパスポートをやめるところも出てきています。プラシーボ効果でワクチンを打ったことで免疫力が本来のように戻っている人が多いです。感染したら、自分の免疫力を信じることです。日本では医療関係者、保険会社を中心に、免疫力を落とす話が頻繁に出回っていますが、本来、人間の免疫力は奇跡さえも起こすくらい強いものです。
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