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安全性の欠けた日本 [社会問題]

JRは、税金を投入して、国鉄が民営化されたものです。大量の税金投入には批判がありましたが、もちろん、今だに全く返還などはされていません。さて、当時の国鉄は安全性という点では、日本で一番であったでしょう。多くのメーカーなどもこの考えを取り入れて安全性に取り組んだはずです。今でも大型機械を使う工場では、事故などはちょっとした怪我でも皆無ではないかと思います。人間のミスは必ず生じます、その時にも事故を起こさないようにする、そのために二重三重にチェックする、なんてことは、当たり前なことで、安全性の専門家でない素人でも思いつくでしょう。だから、JR西日本で脱線事故は、起こるべくして起こった事故でした。国鉄時代の安全性はどこにもありませんでした。

大きな事故は突然起こるわけではありません。その前に警鐘となる小さな事故などが何度か起きているのです。ですから、小さな事故が起きた時にきちんと対策することで、大きな事故を防ぐことができます。たとえば、あるメーカー工場では事務部門でカッターでつい指を怪我してしまった、ということだけで会議が開かれ、対策が取られるのは当たり前だったのです。JR西日本ではこのような警鐘となる事故が何度か続いており、しかもそれはニュース報道される規模で、決して無視できないものだったのです。それに対して全く何もしていなかったのでした。

さらに、この警鐘となる小さな事故さえも起こさないように、さらなるルールがあります。あるメーカーでは、事故にならなくても危ないというひやりとしたこと、あるいはこれは危ないとはっと気づいたことなどを、単なるラッキーで済まさずに、きちんと報告するというルールです。そして対策が取られます。

羽田空港では、一つの人為的ミスで事故が起きてしまったように見えますが、実はその前にこのような危ないけどなんとか防いだ、とかが何度かあったはずです。こういうことを無視しないことが安全性の専門的知識なのです。

この考え方は一般人の日常生活でもとても大切になります。だから、教育でも、本来なら取り上げるべきことですが、今でも続いているゆとり教育というレベルの低い教育では完全に無理なのはとても残念です。
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COVID-19:気ままにものごとを決める行政 [社会問題]

CDの規格を決める際、ソニーの大賀氏がベートーベンの第九が入る長さにしようと提案して決まりました。クラシックではもっと長い曲はたくさんあるし、第九でもベームなどの演奏は入らない長さだったりしたのですが、規格に限らず、物事を決めるには根拠や基準というものが必要です。

コロナ観戦事態は全く何も変化していません。行政は猿でもしている学習行動を取れずに何度も感染拡大の波を作り出しているのも変わりません。そのなのに、2類から5塁に変更しました。これでわかるのは、分類の基準がない、ということです。つまり市民の代表が行政をしているのではなく、勝手気ままに物事を決めているのが行政です。
マスクをするかしないかを判断するには、感染の危険性情報が必要です。しかし、それももはや公表されません。それでマスクの着用は個人判断とするのは、もちろん行政の無能、無責任、さらにその隠蔽と言えます。また、これではマスクをしない責任も取れませんから、社会全体を無責任で満たすことになります。

とんでもない、ありえない行政です。

このことは、与党を支持することに、決して思想の自由はないことを示しています。無能無責任を横においても、犯罪相当に当たることをしています。例えば、100%市民を危険にさらし、完全に憲法25条違反をしている、ということが、支持してはならない明確な根拠です。

政府はコロナ感染の責任はどこにあるかを明確に公表し、市民が判断できるように、危険性に関する情報、さらに個人に責任をなすりつけるなら、最低限接触情報を知ることができるアプリの配布をすべきです。
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サイコパスの有名人 [社会問題]

サイコパスpsychopassは精神疾患ではありません。それは最近概念として固定されましたが、大昔から人間の間にはこういう精神構造の人々がいました。感情がないというより、倫理観が根本的にないのです。善悪判断の問題ではなく、極端な言い方ですが、自分以外の存在は何の価値もないという見方です。そしてこれは遺伝しますし、またそういう姿勢の人間と関わり、影響を受けるとサイコパス傾向を持ち、やがてサイコパスとなり、脳にサイコパス回路ができます。もちろん、理性を身につけ、理性に従った行動ができる人間ならば、脳にサイコパス回路があってもそういうことはしませんから、遺伝よりも本人の知性レベル、もちろん学歴などには全く関係ない実質の知性レベルで決まります。

サイコパスを見分けるのは、特徴を知って、現実をきちんと観察できる人には簡単です。一番大きな特徴は、金と権力の亡者ということです。つまり、それ以外の全ての価値を否定し、金と権力以外のものだけを追求します。当然、他人の命など全く価値を持ちません。家族であっても全く同じです。もう一つの大きな特徴は嘘を平気で言えるということです。単に嘘をつくだけでなく、欺瞞行為や詐欺行為を普通にしています。ですから、サイコパスの人について他人の評価は、人の話を親身になって聞いてくれるとても良い人、あるいは間違ったことをしたらきちんと謝れる真摯な態度の人、などがありますが、話なんか聞くふりですし、謝ることで相手が完全に自分を信頼することを意図しています。このように常人の理解を超えて嘘をつくのです。ですから、知らないとすっかり騙されます。また、自分の得た権力や金を守るために、なんでもやるのです。これも大きな特徴です。

以前は3%ほど、つまり日本で言えば一クラスに一人いることになります。そしてこれは増えています。しかし、これは一般的なデータであり、金と権力の亡者が集まるところでは97%がサイコパスです。自分の責任で人が亡くなれば、責任を感じて悩んだりしますが、サイコパスは自分の責任で人が亡くなると、命を自由にすることができると勘違いし、むしろ自分のせいで多くの人が死ねば死ぬほど、自分が手にしている権力はそれだけ大きいと喜ぶのです。

誰でも知っている人間達がサイコパスであることがわかるでしょう。
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COVID-19:マスクをしない無責任と政府の責任転嫁 [社会問題]

自分の行動には責任を持つべきです。責任を取るとは、元の状態に戻すことです。戻せない場合は、相当する補償をしなければなりません。しかし、人が亡くなったりしたら、補償のしようがありません。

COVID-19は症状が出ていない潜伏期間中でもウイルスをばらまきます。感染してから20分後にはウイルスをばらまいた、という事例があります。これがインフルエンザとは違い、根本的に大変危険なウイルスの性質なのですが、日本では専門家でさえ、いまだにこの危険性を認識できません。

今は正確な感染者数が出ていないので、危険度の予想の制度はかなり低いですが、東京では300人に一人は感染者がいると個人的には予想しています。マスクをしなければ、感染のリスクはその分高くなります。感染してしまったとしても当然の話になりますが、問題はここからです。感染した人間は症状が出ていなくてもCOVID-19のウイルスをばらまきます。それは空気中だけでなく、触ったところや話したところの近くのものにも付きます。これがウイルスをばらまくということです。それによって感染させられた人は家族をも感染させるでしょう。死ななくても後遺症があれば、病院通いとなります。この全ての責任を取り、元の状態に戻さなければなりません。しかし、一体誰がこの責任を果たせるのでしょう。そもそも責任を取るために、自分が誰を感染させたか、それを個人が調べることは不可能ですし、もちろん行政がやるはずはありません。言えることは一言です。マスクをしないことは、無責任そのものです。

コロナ感染の責任は完全に日本政府にあります。しかし、マスクをするしないの判断は最初からずっと個人判断であり、それを強制する法律はありません。今、個人判断にするということを言っているのは、無意味なだけでなく、その意図が、言葉通りの意味ではなくて、感染を個人責任に転嫁することにあります。そして、日本政府とその後ろの専門家の責任を隠蔽し、自分たちの無責任を通してしまおうとしているのです。それだけではなく、マスクをしない人間は無責任となるのですから、人々に間に無責任を当たり前にしようちしているのです。

これほど酷い時代はありません。日本政府や行政、その後ろの専門家達の無能と無責任を知らなければなりません。そして、こんな愚か者たちに自分の人生を左右させるようなことを許してはいけません。
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傘がない [社会問題]

この話はもちろん陽水の歌のことではありません。個人のありきたりの体験談です。

雨で電車が遅れていたのですが、時間があると思い、トイレでうがいをしていました。傘を忘れないようにしようと置いてうがいをしていたら、トイレのスピーカーから〇〇番線に電車が到着します、との案内で慌てて水筒をしまい、バッグを背負い、マスクをしてトイレを出て階段を駆け上がり、無事乗ることができました。周りをフッと見ると、手に傘を持つ人ばかりで違和感、あれなんで両手が空いているんだ、となって傘を置き忘れたことにすぐに気づきましたが、快速電車に乗ったので、戻るにはかなりの時間がかかります。それにあるかどうかもわかりません。次の駅で忘れ物センターに行き、事情を話しました。年配の担当者は丁寧でしっかり仕事をしているので、時間がかかりましたが、数時間後に忘れた駅の戻ることを伝えると、届いていればその駅で受け取れるから、と教えてくれました。

帰りに駅に寄り、まずトレイを覗きましたがもちろんありません。近い駅事務所で行きましたが、やはりありません。一応念のため、その駅のもう一つの改札にある駅事務所に行ってみました。ビニ傘ではありませんが、安っぽい傘です。期待せずに行くと、混雑時で並んでいて、前の人はさっきの電車の網棚にカバンをすっかり起き忘れてしまったとのこと。楽器を置き忘れるとほぼ100%戻ってきませんが、カバンも同じでしょう。折り返して戻って来る電車に乗るようでした。人ごとではないので注意。私の場合は、なんと、傘がありました。届けてくれた人がいたのです。起き忘れた場所の近くではなく遠い駅事務所なので、その間持ち運んでくれたのです。よかったと思ったら、身分証明書ありますか、という問いでガーン。持っていませんでした。混雑時の忙しい時に対応してくれた駅員は素晴らしく、あとでお礼を言いましたが、ともかく、傘はなく、濡れて家まで帰ってきました。

4日間くらいは保管してあるのですが、電車賃の方が高いくらいの傘です。家族は鶏肉必要はない、というのことですが、私は自転車なら片道1時間なので、身分証を持ち、自転車で取りに行きました。サイクリング気分でした。昔から長時間自転車に乗るとお尻が痛くなるのですが、当然帰りには痛くなってしまいました。帰ってくると家族は相変わらず、この傘取りに行かなくても良かったのに、と笑っていました。

私が傘を取りに行ったのには理由があります。それは、大して立派でもない傘、その忘れ物なんて、みんな無視しても当たり前です。実際そういう現場を見ましたし、私も時間がなかったのでそれを届けませんでした。それをわざわざ届けてくれた人の気持ちと行動を大事にしたく、取りに行くことで、これがあるべき形で完結する、と思いました。こういうことは文化的価値というものです。経済的価値を考えたら取りに行かないほうがいいです。また、人の気持ちや親切全てが文化的価値でもありません。しかし、私は拾得者の気持ちと行動にはその価値があると思いました。音楽をやっているならなおさら、文化的価値には注意しなくてはならないと思っています。
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AI崇拝者が増えている [社会問題]

中学生の頃、担任の英語の先生と給食を一緒に食べながら、戦争の話になった時、先生は、戦争になると科学が発達する、とおっしゃり、戦争は悪と話していた私達は、その言葉にえっとなり、だまってしまいました。そのことについて、私はその後もときおり考え、科学そのものが早く発達することは良いことなのだろうか、と別の疑問を持ったのでした。先生は私達に物事の両面というものを教えてくれ、その問題について、自分達で考えるということを知っていたのです。先生は当時の普通の英語の先生でしたが、ゆとり教育以後、理解できないことは教える必要なしとされ、こういうことを教えなくなり、教育レベルは低下し、それはかなりひどいものです。理解できなくても教えるべきことは教えるのが教育の基本なのですが、それが否定されましたから、当然の結果です。

科学の発達というと良いものという思い込みがありますが、ダイナマイトの有名な話でわかるように、実際科学技術は道具であり、どう使うかによって変わるものです。アメリカはベトナム戦争時に人間の精神をコントロールする研究を発展させ、ゲーム理論などが作られましたが、その線、アメリカの消費者のコントロール、そして現在は世界中の大衆のコントロールに使われ、一時期、世界中の嫌われ者だったアメリカに、今は多くの国が言いなりになっています。しかも心理学者、社会学者もこのことについて全く認識できず、すでにアメリカのマインドコントロールに染まっています。

機械や道具の開発により、人間は肉体をあまり使わなくなり、昔より肉体は貧弱になりました。これは肉体に限りません。今はコンピュータやAIによって頭を使わなくて済むようになり、人間は昔より精神活動も減り、記憶力一つでもわかるように、精神が貧弱になりました。それは日本の教育制度の改悪にも現れています。今は、タブレットなどを使うようになってしまい、子供達の脳の発達そのものが抑えられています。そして、この知性の低下はテレビやネットなどによって大人にも広がっています。

前述のように知性の低下は日本だけでなく、世界中で起こっています。今後AIは不必要なことまで含めて、あらゆることに使われるようになり、人々はAIを信用し、自分の頭を使わずに、AIに依存するようになります。それによってますます人間は馬鹿になり、ますますAIに依存するようになります。すでにアメリカでは多くの人がAIによる判断に従っているようで、まさに旗を振りながら堕落の先頭を走っていると言えます。

世界をどうしたらよいかについて、AIはこう答えるでしょう。人口過剰があらゆるの社会問題の原因になっているので、人口を減らすべし。さらに権力者達とその仲間は問題解決能力がなく、問題を悪化させるのみなので、即排除すべし。ターミネーターの世界は単なる空想ではありません。


AIを神のように崇拝する人々が増えていて、AIを広め、AIで世界を変えようとしています。しかし、AIに依存し、信じではいけません。AIの使用で人の精神は貧弱になり、馬鹿になります。AIに依存せず、自分の頭を使うという努力をしなければなりません。
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COVID-19: 詐欺行為に騙されるな [社会問題]

COVID-19については、行政は嘘を平然と報道していますが、しかし、単なる嘘ではなく、人々を騙そうとする詐欺行為になっています。信じて騙されないようにしましょう。

テレビで政府が出している広告では冬には感染が増える、みたいなこと言ってますが、夏にも感染が増えています。まるで季節性があるような誤解を与える一面的報道で、嘘ということを回避しながら、誤解を生じさせるので、完全に詐欺行為であると言えます。
しかも感染拡大は政府による旅行推進が直接関係していることはこれまでも何度も指摘され、政府はまったく認めずにいい加減なことを言ってごまかしてきました。今回の広告も無責任を誤魔化す酷す隠蔽工作です。
オミクロン対応ワクチン接種を促していますが、ワクチンが危険であることを全く無視しています。コロナ感染者の死亡率は0.1%であり、この数字は最初から変わっていません。ワクチン接種していても感染し、その死亡率は変わっていません。ワクチンが効果があるというデータ、つまりevidenceもありません。そういうデータ収集は日本では全く行われていません。

ドイツの複数の専門家の話では、2021年同様相変わらずワクチンは危険なので、ワクチン接種はすべきではない、ということです。死亡したり、副反応で苦しめられます。
5類にしようとしていますが、それはまさに政府の無能さを示しています。防衛という名でアメリカに渡す金はあるのに、コロナ関連に使う金を大幅に減らそうとしているのです。もちろん、感染はずっと個人責任にしていますが、実際はできる限りの対策をしても感染しますから、その感染した人間にその責任がああるはずはありません。責任は完全に行政にあります。また、こういう事態は憲法25条に違反しています。

オミクロンが入ってくる前、日本では感染者ゼロの県もありました。政府は水際対策をしっかりやると言っていましたが、全くざる状態で、すぐに日本中広まりました。政府と専門家は、コロナ共存と宣言したことでもわかるように、韓国や台湾、ニュージーランド、あるいは中国のように感染を収束させるには何をすればいいかということが全くわからない、一言で言えば無能です。政府からのいかなる言葉も信じてはいけません。

コロナに感染すると、老人は死亡率が高いです。政府のコロナ共存政策は、まさに老人殺害政策と言えます。年金も株投資されているので、大幅に減ることがあり、老人の数は少ない方が問題ない、と考えているのでしょう。若者はゆとり以後思考力、理解力が低下しており、旅行や子育てで金を配っているので、与党に票を入れると、完全に馬鹿にされています。老人は与党には批判的な人間が多く、数が減ることで与党政府は安泰であるとしているのでしょう。

感染リスクを狩野な限り下げることをします。まずマスクをきちんと装着すること、人との距離を無風状態で2mは取ること、さらにうがい手洗い、顔洗いを徹底すること、もちろん免疫に必要でも、不足がちなビタミンB12、C、E、そして亜鉛をとること、などをする必要があります。そうすれば、ワクチン接種は危険でしない方がいいです。

私はコロナ以前から、中国からやってくるPM2.5を吸わないように外ではマスクをしていました。これも政府が対応すべき問題です。また、スマホなどの5Gの電波は電子レンジなどにも使われている4Gよりも一桁周波数が高く、人間だけでなく植物までも含めて、細胞を破壊する危険性があると、海外では報告されています。そのために安全性が確認できるまで5Gを導入しない国もあるのに、日本では既に発信されており、日々細胞を破壊しているのです。5Gはスマホを使わなくても、基地局からの電波を浴びるだけで危険です。
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比べられないものを比べること [社会問題]

比べては、大小や強弱など判断するには、一つのものさし、つまり数字化が必要です。複素数でわかるように、数でさえ大小関係がわからない数があるのですから、比べることができないものというのは、世の中には普通にあります。一般には、これは質と量という言葉で説明できます。量は比べられるが質は比べられないものです。

しかしこの質を比べることは普通によく行われていますし、テレビなどを見ればわかるようにそれは増えています。昔の例ですが、一般人にペプシコーラとコカコーラのどちらが美味しいと思うか、というブラインドテストがありました。これはペプシコーラが行なった販売促進なのですが、実は多くの人がペプシの方が美味しいと判断するのです。実際に飲み比べると、確かにペプシの方が美味しく感じるのですが、ペプシのほうが若干甘いのです。それで飲み比べるとペプシを選ぶ人が多いのです。実際には、そこまで甘くないコカコーラの方が、飲んでいて飽きが来ない、他のお菓子などには相性がよい、ということがあります。

一般人でないプロによる比較もあります。やはり以前、日本人の寿司職人とスペインの寿司職人の腕比べをしたテレビ番組がありましhた。審査員は味のプロです。いい勝負でしたが、スペインの方が勝ちました。実は日本の方はきゅうりやエビの巻物が出たのですが、これは味が薄く、味の濃いものと比べると当然点数は低くなるのでした。味の濃いものがこういう比較では高得点になりやすいのは仕方ないといえます。調理したもの単品の味比べなどが行われたりするせいか、日本食はもともとご飯、味噌汁、漬物に焼き魚など、それぞれの味のバランスという点が特徴でしたが、最近はそれぞれが練られて一品として完成されてしまい、極端に言えば何を食べても出汁が利いていたりするようになってしまいました、食事全体の味のバランスがなくなってしまったのです。

音楽演奏でもこれは同じようにあります。当然演奏はもともと比べることができないものです。それを色々な面から採点し、順位を決めるのがコンペティションです。審査員であるベテラン演奏家にしかわからないテクニック的なところがあります。一方聴衆はそういうことはわからず、聞いて良かったと感じる人がいい演奏家だと思うわけですので、一般聴衆の評価と審査員の評価が異なる場合があります。演奏家が多少失敗してもいい演奏はありますし、大きな失敗はなかったが押しつけがましい遠そうで好きになれない、というのもあります。また、点数をつけるためには、やはりミスは減点になるのに対し、音楽的内容については質なので、客観的に点数をつけることはむずかしいのです。審査員により点数が全く異なることがあるのは、当然のことです。

このような比べられないものは比べるべきではない、とは思いません。比べられないものを比べる、それは人間が答えのない一つの問題に挑戦しているようです。そこにはやはり文化的価値というものがあり、とても面白いと思うのです。しかし、それは比べられないものを比べている、ということを、しっかりと前提として知っている必要があります。そうでないと、結果に対して必要以上にこだわることになり、価値をゆがめることになります。それはどちらかというと、この比べられないものを比べる文化的価値を捨てることであり、もともとの商品や職人、演奏家の価値をも認めないことになります。文化的価値が失われることは、一種の堕落です。残念ながら、最近はこのように結果にこだわりすぎて、それ以外の価値がわからなくなっているのではないかと感じます。

比べられないものを比べる面白さ、その価値、不条理さをもっと楽しむべきです。
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ネット情報を鵜呑みしてはいけない [社会問題]

メディアリテラシーという言葉がありますが、新聞などのの紙媒体からテレビなどのブロードキャストまでは、そこまでうるさく言われませんでしたが、インターネットで世界中に情報発信を誰もができる状態になってから、情報の信頼性に大きな問題が増えたためです。私達が意識的にしろ、無意識にしろ、情報を得るときには、それを鵜呑みにしてはいけないということが大前提で、そこからどういう風にすれば、情報を勘違いしないかということがメディアリテラシーです。

最近ネットでいくつか、変だぞと気になることがありました。それはネットの一つの情報がそっくりコピーされ、他の情報サイトに載せられ、さらにそこからまたコピーされて広がるのですが、その情報は間違っていたり、あるいは一面的だったり、あるいは単なる一つの見方がまるで多数派が認めているようになってしまっているのです。

たとえば、ブラシノキという名称があったのですが、写真を見るとこれは金宝樹のことでした。いつの間に名前が変わってしまったのかわりませんが、金宝樹の英語名はBrush Flowerなので、ここからそういう名前を誰かが作ったのです。なぜ金宝樹という名前の他にそういう名前を使ったのかわかりません。

また、非和声音という言葉があったのですが、これが、単に和製に含まれない音の意味ではなく、経過音や刺繍音などをまとめる言葉であると書いてあるのですが、それは修飾音という言葉であり、非和声音という言葉をそれに当てはめるのは、意味がありません。

このように、不思議な言葉がネット上にはあふれています。決して鵜呑みしてはいけません。もちろん、内容がチェックされるはずのwikipediaも同様です。

ちなみに、テレビでは、専門家と呼ばれる人が出てきて解説をする時がありますが、やはり、同様に間違っている、あるいは個人的な意見に過ぎないというものがよくあります。最近は特にネット情報を見てくる専門家もいるせいか、そういう間違い、一面的な見方が増えているように思います。専門家の話も鵜呑みしてはいけません。

また、紙媒体の辞書のようなものも間違った内容があります。たとえば、小学館の学習辞典には、アルファベットの筆記体は速く書くための文字である、と説明してありますが、明らかに間違いです。速く書くなら筆記体ではなくブロック体の方が適しています。なぜなら字画数が少ないし、結構下手に書いても読めます。筆記体を速く書くことは難しいし、下手だとなんと書いたのか読めません。筆記体は美しく書くための文字と言えます。さらには教育で使われる教材には、間違った内容もあり、昔からあるしっかりした学習塾以外のところでは勉強しないほうがいいです。間違ったことが教えられているからです。これはもともと文科省が作る内容自体に問題があり、アルファベットの書き順などというものはひどくて使えません。

アルファベットに関しては、昔から意味のないローマ字勉強など、妙な内容が教えられているのですが、最近はさらに新しい間違いが使われています。それは場所に関するローマ字表記です。新橋をShimbashiと看板などで表示するのは明らかに間違いです。それは学校で教えられるローマ字とも違います。また、アルファベットが表音文字であることも無視しています。新橋の「ん」の発音はnであってmではありません。Shinbashiが正解。

以上、個人的意見でした。これもまた鵜呑みしないように。


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朱に交われば赤くなる、は知られていない [社会問題]

「朱に交われば赤くなる」よく知られていることわざのはずなのに、実はあまり理解されていないと思います。一般には、人は周囲に影響される、あるいは仲間によって良くも悪くもなる、という意味で説明されていますが、ちろん間違ってはいませんが、それではそういうことはあるある、で終わってしまうでしょう。基本、このことわざは悪い意味で使います。つまり、どういうことかというと、交わりで人は気がつかないうちに悪くなる、これが朱に交わればが該当する事例なのです。

自分は環境なんかで影響を受けたりしない、と思っている人はとんでもない勘違いをしています。例えば、普通の思考力のある人が、幼稚な考えをする人と意見交換すると、相手の考えを理解するために幼稚な考え方を辿るようになり、これで幼稚な考え方に染まり、知らずに普段も幼稚な考えをするようになります。これが、ことわざが示していることです。交わるとは、環境と言えるほどそんなにどっぷりとつからない、単に言葉を交わしたり、話を聞いたりすることも含んでいるのです。

具体的な実際の話で言えば、突然敵国が日本を攻撃したらどうするんだ、ということを言う人がいます。そして、だからしっかりと軍備増強をしなければならないという意見です。この話をもちろん納得するのではなく、間違っているはずだと思って、このことをいろいろ考えれば考えるほど、その間違った考えの思考法に染まってしまいます。一つの反論として、防衛は攻撃技術より遅れて開発されるから、防衛ができない新兵器がある段階で攻めてくる、いくら軍備増強しても無駄だ、と反論すると、それなら先に攻撃すればいいのだ、というような、幼稚な意見がどんどん続くことになり、ますます思考法が相手と同じになってしまうのです。この意見は論理的に見えて、それは完全に一面的であり、自分の意見に都合の良いことだけを並ベています。だから、相手の意見の土俵に立たず、全くその意見とは異なる自分の見方、思考の仕方をしないと染められてしまうのです。たとえば、攻めてくるには理由があります。だから、敵国の攻撃にという話には、その攻撃する理由に対処すれば攻めてきません、という反論ができます。この場合は、そもそも最初の話の前提条件が間違っているのです。

この例では平和問題を扱っているので、本来平和とはどうやって実現できるかをきちんと考えるなら、答えは一つであるという明快さがあります。ここから離れないことが大事です。この問題をきちんと考えられない人は、説明しても理解できないので、上記のような反論をしても、反論にならない全く無意味な話をしてきたりします。ですから、反論があっても、それに丁寧に対応してはいけません。どんなに注意深くしても、どこかで相手と同じ土俵に上ってしまう危険があり、そうなると染まってしまいます。結局、朱に交わらないことが、確実に自分を堕落させないことになります。これは自分なら大丈夫ということはなく、まず、染まらない例は一つもないと言えます。

朱に交わって赤くなってしまった場合、それは本人には自覚がありません。現在、これは社会を悪化させる大問題となっています。統一協会と交わった人間は染まってしまいます。そして、その染まった人間と交わった人間も染まってしまいます。これはすでに前例があり、政治家を取材することで、マスコミはどんどん染まってしまうのです。初めは与党に批判的であった人間も、交わることで染まって与党と同じ一方的な考えをするようになります。以上は、ことわざそのものです。

統一教会と闘っている人々がいます。染まらないようにするには、この人達のように、常に法律に基づいて思考することが大事です。法律ならば、意見交換ではなく、単なる事実と法律の適用になります。相手の考えを理解する必要は全くありません。
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