SSブログ

第三次世界大戦を防ぐには [社会問題]

第三次世界大戦は予言があったりして避けなければならないのに、突然アメリカの大統領がその可能性を言い出すのは変です。

ワリエワのドーピング問題でも、損しかないドーピングであり、意図せずにそれを取ることも有り得ないのに陽性になったのは不思議です。しかし、これにも誰もが納得するきちんとした現実があります。今回のロシアの攻撃については、ワリエワ以上におかしなことがあります。まず、なぜウクライナの大統領はNATO加盟を言い出したのか。NATO側、特にアメリカが1990年のNATOは東方拡大をしない、という約束を破ってそれを受け入れようとし、また、約束はない、という嘘を言ったのか。
ウクライナのNATO加盟で特をする人間は誰か、を考えると、アメリカ大統領が真っ先に挙げられます。ヒラリーが大統領になっていたらロシアと戦争になっただろうという話を思い出します。民主党はロシアとの戦争を望んでいる可能性があります。そうでなくても、ウクライナを覇権下に置けば、軍隊を常駐し、ベラルーシをはじめとする親ロシア地域を圧迫し、場合によってはそこを内戦状態にする可能性もあります。
また、ウクライナのNATO加盟を言い出した指導者達は、アメリカからの何らかの利益あるいは弱みと引き換えにしたと想像できます。

プーチンは攻撃以外の選択肢がなかった、と言いました。これは日本の戦争を思い出します。80年ほど前、日本から東南アジアへの海路をアメリカは封鎖しました。それによって日本は石油がなくなることになりました。今で言う経済制裁になるでしょう。長引けば戦艦や戦闘機は単なる鉄の塊になってしまいます。そこで、日本は戦争を選択しました。アメリカはなぜ日本と戦争をしたかったのか、というと、戦争前から核爆弾の実現性がわかっていました。ヨーロッパで使うことはできません。そこで日本に使いたかったのです。シナリオ通りに事は運びましたが、思っていたより日本が強かったのは事実でしょう。戦後も怒らせたら日本はやばい国と思っていたようで、天皇を残し、また親米教育を行わせる方向になりました。

今回、第三次世界大戦と言い出したのは、やはりシナリオ通りなのでしょう。しかし、ロシアの素早い攻撃はシナリオにはなかったものと思われます。このまま世界戦争になるのでしょうか。

ファティマの予言というのがあります。ポルトガルの小さな町ファティマに聖母が現れ、3人の少女に三つの予言をしたのです。なぜ聖母たる者が田舎町でしかも子供に伝えたのか、これも大きな疑問です。これにも誰もが納得する現実があるでしょう。予言の一つ目はその時に生じていた第一次世界大戦がまもなく終わること、第二の予言はその後また世界戦争が始まること、そして第三の予言は長い間公開されていませんでした。バチカンは少女から直接話を聞き、第三の予言を長い間公開しなかったのです。これも不思議ですが、予言の三番目は第三次世界大戦のことではないか、というのが当然の予想です。しかし、その後バチカンが公開した第三の予言はそうではなく、教皇らが兵士によって銃殺されるという内容でした。多くの人はある意味世界的ではない内容に疑問を持ちました。しかし、二つのことを重ねるとこういう予想ができます。教皇らは兵士によって銃殺される、その兵士とはキリスト教とは対立する勢力であり、それは世界戦争を意味している。つまり第三次世界大戦の予言です。これは宗教が絡んだ戦争ですから、イスラム教やユダヤ教が関係することになるはずです。マラキの予言では次の教皇が最後になるので、その時まで戦争は終わらないかもしれません。
とは、私の解釈です。

ロシアによるウクライナ攻撃は宗教戦争ではありません。アメリカのシナリオにはないと思いますが、もし、ロシアと戦争になった場合、最初は局所的戦争でしょう。しかし、この隙間を狙ってイスラム過激派が動く可能性はあります。今やどこも武器庫はいっぱいです。そうなると一気にヨーロッパ全体が戦争となる可能性があります。そこからは世界戦争になるでしょう。当然中国も動きます。日本への攻撃は、感染症を封じ込めることができないので、ウイルスをばらまくかもしれません。そして、その後は複数の原発の電源などを停止させるでしょう。

第三次世界大戦の予言は他にもあります。私が知っているのは、局所的な戦争が拡大し、世界戦争となるです。それも最初の戦争が始まってから時間をかけて拡大していきます。

トランプは、自分が大統領だったら戦争は起こらない、と言っています。嘘ばかり言ってきてましたが、今回は嘘ではないでしょう。共和党がはこのまま民主党大統領のシナリオを許すのでしょうか。経済制裁をやってはいけません。それは戦争を誘発しします。ウクライナは以前通り、中立国になることです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

フィギュアスケートに美しさは必要か [偉そうな一言]

フィギュアスケートのペアのタラソワ・モロゾフの二人は素晴らしいものでした。ワリエフもそうでしたが、技術だけでなく、きちんと美しい動きをしていました。この二人を見たら他は見なくてもいい、と思えるほどです。もちろんそんなことはありませんが。
女子のソロなどもそうなのですが、実は順位の低い選手のパフォーマンスにはとても素晴らしいものがたくさんあります。男女が同じ動きをするだけで美しいのです。しかし、単に同じ動きをしてもそうではない場合があります。つまり、二人がぴったり同じ動きをすればいいというものではなく、そこにある美しさを表現するようにしないと美しくならないのです。解説やアナウンサーの方が、ゆったりしたスケーテイングが音楽に合ってました、とか、音によく合ってました、と言うのは全く逆で、初めから音楽や音に合わせたスケーティングの表現をしているのです。演奏者は似たような体験をよくしていると思います。合わせる気持ちで合わせるのと、そうではなく単に合っているのとでは全く異なる演奏になります。楽譜を見るだけでなく、その音楽のイメージを持つだけで全く異なる演奏になります。フィギュアスケートでは、この美しさは下位の選手でもよくあるというか、上位の選手と異なり、むしろそこを重視しているように見えます。フィギュアは技術の点数で決まるので、たとえば同じ動きでもより美しい、となっても点数は高くなりません。むしろ、上位の選手は順位を気にするために技術ばかりに注意や練習が増えることになり、むしろ、こういう美しさは気にしなくなりがちです。それなのに、上記のロシア選手たちは、その順位にいながら美しいのです。それは演技そのものを楽しむ者には本当に喜びです。そして、始まる前から既に演技に入っており、終わるまで、一連の動きは有機的に関連して作られています。
技術が難しくなると、むしろ演奏はそれだけになるということは、バイオリン演奏でもあります。難しい曲を練習し始めると、それだけになりやすいのです。パガニーニなどがいい例です。それをきちんと弾けると、それで満足しがちです。しかし、そういう演奏はつまらないもので、一度聞けばもう十分です。音楽の美しさに対する注意が欠けてしまっているからです。それは上手になればなるほど、何度もやってくる危険性です。気がつくと、技術は素晴らしいが、とんでもなく退屈な演奏になっています。
パガニーニは単にテクニックだけのつまらない曲では、ということが言われたりしています。残念なことですが、パガニーニの曲はそんなつまらない曲ではないです。技術的に難しい曲ほど、技術以外のことにより意識的な注意が必要です。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

フィギュア男子ショートは注目 [偉そうな一言]

ィギュアスケートで一番楽しいと思うのは、アイスダンスです。人気種目のソロはあまり興味がありませんが、今回の北京オリンピックの男子のショートを見て、びっくりしました。3人とも素晴らしいスケーティングでした。
フィギュアでは美しさは関係ありません、だから、ぶっちゃけ、点取りに走れば、大して面白くないスケーティングでも良いのです。しかし、王者たるもの、そんなチンケなスケーティングで良いのか。羽生君は常に王者として、美しくないスケーティングは意味がない、とでも言うように、美しいこと、観衆に心に残るスケーティングを心がけているに違いありません。そして、羽生君の影響が受けてか、男子3人のショートはすごく美しいスケートでした。

フィギュアの点数は理性的判断で行われます。それは美しさとは全く無関係です。芸術はそこに崇高な思考が感じ取られたとしても、常に感覚を通して訴えかけてくるものが大事であり、理性的判断となるような明確な基準を持つものではありません。フィギュスケートには以前、そういう項目がアーティスティックポイントとしてありました。しかし、これは判断基準が曖昧であり、結局は仕草や流れといった、理性で捉えられる基準というものに置き換えられてしまいます。それで、そういうものがあるスポーツもありますが、フィギュアスケートではなくなってしまったのです。残念ですが、そうなのです。

以前書いた繰り返しになりますが、フィギュアスケートという名前の由来を知っている人は案外少ないと思います。ネットの情報は間違っているので決して鵜呑みにしてはいけませんが、フィギュア、形というのは選手の姿のことではなく、氷の上の図形のことです。初心者が最初に身につけるであろうスリーターンという、体を180度反転させる技がありますが、このスリーは氷に数字の3が描かれることから来ていると考えられます。そして、過去においてはコンパルソリ、規定競技という、この図形を争う競技部門があり、それと現在と同じようなフリー演技で点数を競ったのでした。コンパルソリは円や8の字を描き、その正確さを競うもので、定規で測定されました。この競技は選手にとっては精神的にかなりきついもののようでした。しかし、滑っている時の姿勢は、採点範囲ではあったようですが、大変美しく、特に滑り出しなどは、本当に芸術的な動きなのです。そのダイナミックな動きの後に、図形を描くときの静かな姿勢、個人的にはこれほど魅力的なスポーツはないとさえ思います。しかし、地味であり、テレビ受けするはずもなく、競技として無くなってしまいました。

元のショートプログラムの話に戻ると、男子3人の良さは、その美しいスケーティングだと思いますが、そのポイントは、実は滑っている時の脳内活動、つまり、精神状態と思考内容にあると思います。昔から知られていますが、実はあまり広く走られていないことが、人間の動作はその時の精神状態や思考に大きく影響されるということです。フィギュアスケートだけでなく、多くのスポーツや芸術で、テクニックとともに、かなり敏感に反応します。しかし、これを知っていてもそれをコントロールするのはなかなか難しく、大変です。スポーツでは、脳内ホルモンのコントロールという方法が使われたりするのがあるくらいでしょうか。自己暗示を使う方法は危険で、反対の結果となる逆暗示があるだけでなく、続けることで誇大妄想狂、つまり現実を自分の妄想で置き換える行動習慣になってしまいます。
3人の男子は、結果と関係なく、きちんと自覚した自信を持ち、そしてスケーティングを可能な限りイメージ通りに滑りました。言葉で言うと簡単ですが、なかなかこれは難しいことです。なにより、イメージしているスケーティングが美しいからこそ、できるスケーティングです。

ちなみに、全く話は変わりますが、音楽においても、演奏中、どういう音、どういう音楽を紡ぎ出すかというイメージはとても大事です。確実に、それは音に反映されます。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:スポーツ

いい演奏とそうではない演奏 [偉そうな一言]

生演奏と録音を聞くのでは全く異なります。これは普通はあまり知られていないと思いますが、例えば録音するときに、その生音を聞くのと、単にマイクからアンプそしてスピーカから聞こえるモニターの音を聴き比べれば、だれでもびっくりするくらい異なることがわかります。スタジオなどの高価な機器を使ってもそれは違います。まず音色が全然違います。また、低音から高音までのバランスも異なります。さらに複数の楽器ではそのバランスも異なります。録音を聴いて本番の状況を推測できるのは経験からであり、実際にはそれとは全く異なる音が聞こえていた、と考えるのが正しい姿勢と言えるでしょう。

さて、このことを踏まえて、先日TVで録音を聞いたバイオリンソナタの感想ですが、最初から、いわゆるほぼ楽譜に沿った演奏ではないものでした。一つ一つの音もやや荒く、音楽の流れも途切れ途切れ、ピアノとバイオリンが合うべきところがずれていたり、など、途中で聞くのを止めました。しかし、もちろん、終わってからはたくさんの拍手でした。そこで、改めて演奏とは何かを考えました。

ピアノというのは、クラシックで使われる楽器の中では、音を出すのが一番簡単な楽器だと思います。そしてバイオリンはその反対にかなり難しい楽器です。ところが、ピアノは上手な人と下手な人は意外とはっきりと見分けられます。きちんと感情に訴えてくる音楽としてまとまりを持っているかどうかで、明確に分かれます。それに比べるとバイオリンは、それなりの音を出すまでが大変です。そして、それが出せるようになると、その音を聞いただけで人は感情を動かされます。そうなると、あんまり大した演奏ではないのに、人はそこに何か美しいものを感じたりします。そして、いい演奏をひどい演奏の区別は、むしろピアノより難しいと思います。

このいい演奏とそうではない演奏は具体的には何が違うのか、バイオリンはわかりにくいですが、簡単に言えば、いい演奏は音楽が伝わってきます。しかし、そうではない演奏で伝わってくるのは、音楽以外のものです。例えば、これだけ弾けるんだぞ、とか、こんな演奏くらい簡単簡単など、あるいは場合によっては、私が演奏したら悪いわけない、という勘違いです。作品に対する敬意などはもちろん感じられません。

さらに、いい演奏にも二種類あります。たとえば、このフレーズはこの音を大切にして、ここはもっとスタッカートとスラーの性格をはっきりと分けて、などはかなり表現として重要になりますが、このようなことは実はテクニックに分類できます。ところが、ここはこういう気持ちを持って弾く、というのは全くテクニックではありませんし、テクニックに結びつけることはできません。つまり、テクニックを全て無くした場合に残るものというのがあります。それが音楽の価値です。テクニックとは一種の機械的な動作として置き換えられるもののことです。将来AIがそういうテクニックを満載した演奏というものを作る可能性が考えられます。そして、そういう演奏も音楽として楽しむことができるでしょう。しかし、真の音楽の価値はそこにはありません。たとえば、パガニーニの演奏は多くの人々を虜にしました。しかし、あの難曲を見事に弾いたからといって、人々はそこまで熱狂しません。超絶技巧は驚かせはしますが、熱狂させたのは、彼の演奏にあったそういう、価値のものです。もちろん、これは個人的な想像に過ぎません。

音楽を単なるエンターテイメントにすることもできますが、実際にはもっと違う価値もあります。クラシック音楽を愛する人にそういう演奏を何度か体験しているのではないでしょうか。そして、そういういい演奏は決して名手だけのものでもありません。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽