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バイオリンの練習の方向性が間違っている [偉そうな一言]

ズーカーマンは、小さい頃から難しい曲を弾きすぎる、と言いました。ズーカーマンが言っても本人も当然小さい頃から難しい曲を弾いていたわけで、説得力がないように思えますが、逆に言えば、それがあるからこそ、難しい曲を小さい頃から弾く必要はないと言えるとも考えられます。若い演奏家を見て、本当に難しい曲を弾くので、さらにそれがそう言わせた直接のきっかけでもあるでしょう。

映画「シャイン」の中で、天才ピアニストの少年がラフマニノフを弾きたいと言いますが、先生はまだ早過ぎると言って弾かせません。そんなことがあるのか、と疑問を持ったり、やっぱりそういうものだ、と納得したりするかもしれません。

晩年のオイストラフが日本に来る、最後の来日だろう、一体何を弾くのだろうと想像を逞しくした人は多かったと思います。やはりチャイコフスキーか、それとももっと驚くような大曲か。ところが持ってきたのはモーツァルトの協奏曲でした。

モーツァルトは多くの子供が演奏します。しかし、歳を取ってから、あるいは長い演奏活動からでは、モーツァルトの演奏は全然違います。それが子供の頃とは全く異なる演奏になっていることは明らかでしょう。全ての曲が、そういうものを持っています。もちろん何事においても、若い時には気がつかないのに、歳をとり、経験を経ることで気がつくようになります。ラフマニノフも同様です。しかし、一般に、ラフマニノフというロマン派の曲は、それまでのバロックや古典派の曲を知っているかどうかで、感じ方はだいぶ違います。音楽の歴史は単に並んでいるものではなく、音楽そのものがいろいろな方向に発展しているのです。例えばいきなり多調音楽をやってもその面白さを知ることはできないでしょう。発達というものには順序があります。たとえば、バイオリン初級者の段階ではポジションを正確に取ることが大事ですが、それができたらポジションの制限はむしろ取り外した、拡張した弾き方も練習します。しかし、これを初級者に教えることは、完全に無駄なことになり、やらない方がいいのです。順序が大切です。

ズーカーマンの言葉の意図は、子供の時あるいは初級段階では、難しい曲を弾かずにもっと音楽性の鍛錬をすべきだという意味だと思います。テクニックに偏りすぎだとも言えます。フルーティスト吉田雅夫氏は、最近の学生はモーツァルトはつまらないと言うのだから驚いた、と言っていましたが、欧米からは日本はクラシック音楽後進国と思われていた時代、何十年も昔のこととはいえ、既にモーツァルトの素晴らしさを感じる学生が少なかったことを示しています。テクニックしか興味ないといつまで経ってもモーツァルトの音楽を知ることはできないでしょう。現代において、ズーカーマンは東洋人の若手演奏家がいる前で前述のことを言ったのですが、特に日本はテクニック重視の傾向が顕著になってきていると思います。

プロでもテクニックが衰えても演奏している演奏家がいます。概ね、日本では評価は悪いです。プロは厳しい世界で、一度でもひどい演奏をすると評価が一気に下がります。そして、商売でもある演奏会はなかなか大変になるでしょう。しかし、これは逆も言えて、衰えたテクニックで評判が芳しくない演奏家が、一度でも本当に素晴らしい演奏をすると、それ以後それを聞いた人々はファンになってしまうのです。テクニックの衰えたプロの演奏家にはそういうファンが付いています。

特にクラシック音楽にはテクニックは必要ですが、最初から音楽を演奏するということをやらなければ、いつまでたってもテクニックだけの退屈な演奏になります。しかもそれは、子供の時に弾いた素晴らしいモーツァルト演奏より酷く退屈になります。昔と同じように演奏しようとし、そうではない、音楽を感じて弾いていた子供の頃の演奏ができないのです。ピレシュが若いピアニストを指導していたとき、非常に細かいテクニックを教えるのですが、それとは全く異なり、いわば抽象的な指導、つまりは音楽的なことについてもしっかり指導していました。きちんと両方を指導していた、という見方もできますが、むしろ大事なのは、テクニックも音楽という観点からの指導であり、目の前の音楽についてのすべて、細かいテクニックから大きな視点の捉え方などのすべてが音楽を演奏するという指導していたのです。

アニメでもテクニックだけの練習というものが扱われ、このテクニック傾向がますます広まる方向にあるように思います。しかし、大事なことは最初の段階からきちんと教えなければなりませんし、その方向で練習しなければなりません。指が正確に動くテクニックの練習であっても、それは何のためか、どういう演奏をしたいからかをきちんと自覚するようにしなければなりません。だからいわば上手になるためにテクニックを練習しているは、間違った方向です。そうではなく、この音楽を演奏するために必要だから練習するのです。最初から最後までずっと音楽をやるということ、そのために音楽を感じ、音楽の勉強をし、音楽から離れないことが大事です。音楽性という、何か難しい抽象的なことではなく、耳で聞く音楽というものを、演奏しなければなりません。
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楽譜通り弾くことはできない [偉そうな一言]

最近またTVで辻井君のCMが流れていたので、一言。
楽譜通り弾くのはつまらない、という言葉ですが、最初に聞いた時に、楽譜通りに弾くってどういう意味だ、と考えてしまいました。もともとバイオリンは一音を弾くだけでもいろんな弾き方があります。だからどういう音で弾くかはかなり選択肢が多いのです。ピアノとは違うのですが、問題はここではないでしょう。音楽は本来頭の中にあります。作曲家がそうですし、演奏者もそうです。それを演奏者は現実の音にし、作曲家はそれを楽譜として書き残します。音楽は楽譜の向こう側にあります。楽譜そのものは音楽と関係していますが、それが音楽ではありません。楽譜から音楽を頭の中で組み立てます。そしてできた音楽は楽譜とは異なる部分が多く、楽譜通りに弾くなんてことは不可能です。これについてはピアノという楽器がそういうことが起きやすいということがあるかもしれません。小説通りの映像はつまらない、ということがまったく意味不明であるのと同じだと言えます。

ピアニストの上手下手を判断するのはバイオリンより簡単です。つまり、ピアノは叩けば初心者でもそこそこ音が出ますが、それで音を並べると、本当に退屈でつまらないものになります。ところがピアニストと呼べる人が演奏するときちんと音楽が聞こえてきて、音が聞こえてくるという感覚ではありません。それはピアノが、いわゆる上手か下手かではなく、音楽を演奏しているかどうかの違いです。ピアノに比べると、バイオリンは音一つでもいろいろな音を出せるので、その音で誤魔化しやすいと言えます。もちろん、ピアノも和音など聞けば大体はわかりますが、バイオリンは音一つで練習量もわかったりするので、努力していることが見えてきて、そのために音楽を聞く前に上手と思ってしまうのです。

最近、あれっと思う、残念なことは、テクニックだけで上手いと言われることが増えていることです。テクニックが何かはかなりグレーな部分が多く、意見がいろいろ分かれるところですが、一番単純に言えば、細かい音を正確に弾ける、綺麗な音を出せる、つまりは、バイオリンで言えば、右手と左手の器用さがテクニックです。個人的にはさらにもっと専門的なテクニックというものがあり、パターン化できる演奏法は全てAIなどで置き換えることができるので、テクニックと言えるのです。ではテクニック以外は何があるのかというと、それが音楽の演奏と言えるところです。コンピュータが楽譜を自動演奏するのと人間の演奏の今般的な違いです。テクニックがあれば十分だとするなら、世界で一番上手なのはコンピュータ、つまりAIとなってしまいます。

テクニックがあることで満足するならば、コンピュータによる自動演奏とどこが違うかをよく考える必要があります。たとえば、私はここでルバートをしたりしてテンポを微妙に変える、しかしいつも同じようにそれを演奏したいなら、それはパターン化でき、データ化してコンピュータに真似をすることができます。それもテクニックなのです。人の演奏はその時によって必ず変わり、さらに共演者も毎回異なるので、それで猿翁全体も毎回変わります。どうして変わるのか、それは色々な条件が作用しています。そのようにして変わることは決して悪いことではありません。音楽を演奏するならば、因果関係に従って変化するものです。ここに音楽の秘密があります。頭の中のイメージは同じものなのですが、実際の演奏は微妙に変化し、ゆらぐのです。この因果関係に基づく必然のゆらぎがあるかどうかが一つの価値になります。それは、心が演奏を作るからです。楽譜やテクニックは必要ですが、決して音楽の本質ではありません。

富士山を見ると同じ時は一度もありません。毎回毎回異なります。しかし、それが、見る人に美しさとなるのです。アフリカのあるところに住む少女は特別な場所というものを持っていました。そこへ行くと美しい夕日が見られます。毎日見てもそれは美しいのです。音楽も同じで演奏するときには、たとえ毎回同じ曲、同じメンバーであってもその時のみの一回だけの演奏になります。繰り返し聞く人も、初めて聞く人も、その音楽の美しさを受け取ることでしょう。
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