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COVID-19:マスクをしない無責任と政府の責任転嫁 [社会問題]

自分の行動には責任を持つべきです。責任を取るとは、元の状態に戻すことです。戻せない場合は、相当する補償をしなければなりません。しかし、人が亡くなったりしたら、補償のしようがありません。

COVID-19は症状が出ていない潜伏期間中でもウイルスをばらまきます。感染してから20分後にはウイルスをばらまいた、という事例があります。これがインフルエンザとは違い、根本的に大変危険なウイルスの性質なのですが、日本では専門家でさえ、いまだにこの危険性を認識できません。

今は正確な感染者数が出ていないので、危険度の予想の制度はかなり低いですが、東京では300人に一人は感染者がいると個人的には予想しています。マスクをしなければ、感染のリスクはその分高くなります。感染してしまったとしても当然の話になりますが、問題はここからです。感染した人間は症状が出ていなくてもCOVID-19のウイルスをばらまきます。それは空気中だけでなく、触ったところや話したところの近くのものにも付きます。これがウイルスをばらまくということです。それによって感染させられた人は家族をも感染させるでしょう。死ななくても後遺症があれば、病院通いとなります。この全ての責任を取り、元の状態に戻さなければなりません。しかし、一体誰がこの責任を果たせるのでしょう。そもそも責任を取るために、自分が誰を感染させたか、それを個人が調べることは不可能ですし、もちろん行政がやるはずはありません。言えることは一言です。マスクをしないことは、無責任そのものです。

コロナ感染の責任は完全に日本政府にあります。しかし、マスクをするしないの判断は最初からずっと個人判断であり、それを強制する法律はありません。今、個人判断にするということを言っているのは、無意味なだけでなく、その意図が、言葉通りの意味ではなくて、感染を個人責任に転嫁することにあります。そして、日本政府とその後ろの専門家の責任を隠蔽し、自分たちの無責任を通してしまおうとしているのです。それだけではなく、マスクをしない人間は無責任となるのですから、人々に間に無責任を当たり前にしようちしているのです。

これほど酷い時代はありません。日本政府や行政、その後ろの専門家達の無能と無責任を知らなければなりません。そして、こんな愚か者たちに自分の人生を左右させるようなことを許してはいけません。
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傘がない [社会問題]

この話はもちろん陽水の歌のことではありません。個人のありきたりの体験談です。

雨で電車が遅れていたのですが、時間があると思い、トイレでうがいをしていました。傘を忘れないようにしようと置いてうがいをしていたら、トイレのスピーカーから〇〇番線に電車が到着します、との案内で慌てて水筒をしまい、バッグを背負い、マスクをしてトイレを出て階段を駆け上がり、無事乗ることができました。周りをフッと見ると、手に傘を持つ人ばかりで違和感、あれなんで両手が空いているんだ、となって傘を置き忘れたことにすぐに気づきましたが、快速電車に乗ったので、戻るにはかなりの時間がかかります。それにあるかどうかもわかりません。次の駅で忘れ物センターに行き、事情を話しました。年配の担当者は丁寧でしっかり仕事をしているので、時間がかかりましたが、数時間後に忘れた駅の戻ることを伝えると、届いていればその駅で受け取れるから、と教えてくれました。

帰りに駅に寄り、まずトレイを覗きましたがもちろんありません。近い駅事務所で行きましたが、やはりありません。一応念のため、その駅のもう一つの改札にある駅事務所に行ってみました。ビニ傘ではありませんが、安っぽい傘です。期待せずに行くと、混雑時で並んでいて、前の人はさっきの電車の網棚にカバンをすっかり起き忘れてしまったとのこと。楽器を置き忘れるとほぼ100%戻ってきませんが、カバンも同じでしょう。折り返して戻って来る電車に乗るようでした。人ごとではないので注意。私の場合は、なんと、傘がありました。届けてくれた人がいたのです。起き忘れた場所の近くではなく遠い駅事務所なので、その間持ち運んでくれたのです。よかったと思ったら、身分証明書ありますか、という問いでガーン。持っていませんでした。混雑時の忙しい時に対応してくれた駅員は素晴らしく、あとでお礼を言いましたが、ともかく、傘はなく、濡れて家まで帰ってきました。

4日間くらいは保管してあるのですが、電車賃の方が高いくらいの傘です。家族は鶏肉必要はない、というのことですが、私は自転車なら片道1時間なので、身分証を持ち、自転車で取りに行きました。サイクリング気分でした。昔から長時間自転車に乗るとお尻が痛くなるのですが、当然帰りには痛くなってしまいました。帰ってくると家族は相変わらず、この傘取りに行かなくても良かったのに、と笑っていました。

私が傘を取りに行ったのには理由があります。それは、大して立派でもない傘、その忘れ物なんて、みんな無視しても当たり前です。実際そういう現場を見ましたし、私も時間がなかったのでそれを届けませんでした。それをわざわざ届けてくれた人の気持ちと行動を大事にしたく、取りに行くことで、これがあるべき形で完結する、と思いました。こういうことは文化的価値というものです。経済的価値を考えたら取りに行かないほうがいいです。また、人の気持ちや親切全てが文化的価値でもありません。しかし、私は拾得者の気持ちと行動にはその価値があると思いました。音楽をやっているならなおさら、文化的価値には注意しなくてはならないと思っています。
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