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やってはいけない演奏 [音楽の話題]

以前、友人のチェリストが、やってはいけない演奏は退屈な演奏だという先生の話を教えてくれました。これに異論ある人はいないと思いますが、世の中には案外この退屈な演奏が結構あります。実際に退屈でない演奏をするのは難しいということではなく、むしろ退屈な演奏にならないように演奏しているケースが少ないのではないかと思ったりします。

アマチュアは下手な演奏をしないように努力していると思いますが、一方、プロは自分の力を十分に出すことに注意していたりだと思います。ところがどちらにも退屈な演奏というものがあります。プロの方には申し訳ありませんが、そういう演奏を聞いた人は案外多いと思います。つまり、退屈な演奏というのは、上手下手とは関係ないのです。例えば音を間違えているとか、うるさいだけの演奏のように、もう聞きたくないというのは、下手な演奏ですが、一般的には退屈とは異なります。そして、一見上手な人の演奏も、もう先を聞かなくてもだいたいわかるような感じになると、退屈です。毎回、退屈な演奏が続くと、その演奏家達はダメということになり、たとえ無料であっても行きたくなくなります。プロの場合はたった一回でもそういう演奏をすると、そのプロの評価になる場合がありますから、友人の先生のようにやってはいけない演奏になります。

美味しい食べ物の店はリピーターが必ずいるのと同じで、退屈でない演奏とは、また聞きたい、と思うかどうかです。それは演奏を聞いて、心が動いたのです。つまり、良い感情、emotionが生じたのです。ここで言う感情は喜怒哀楽のような明確なものだけでなく、もっと微妙なもの、情感、情動、なども含めていて、理性に対する精神の働きの意味です。この感情には多くの種類があり、モーツァルトのオペラには2,000種類の感情があると言われています。その多くは名前がついていないものなので、なかなか認識しずらいとは思います。演奏家はそれら多くの感情を音楽とともに結びつけていて、それを表現するように演奏します。ところがそういうものがなく、演奏を聞いても心が全く動かない演奏、それが退屈な演奏です。聞こえてくるのは、よく指が回るとか、音程が良いとか、アンサンブルが正確とか、そういう、いわば理性的判断のものばかりなのです。そういう理性的判断は一度済んでしまうと、もう一度聞く必要は無くなります。

ただ、ここから先が問題で、極端な例ですが、情感豊かな演奏をする演奏家が、全く同じような演奏を繰り返すなら、そのうちに飽きます。人間の感覚の法則といってもいいでしょう。ですから、演奏者は毎回新鮮な気持ちで演奏に臨む必要があります。これは特にモーツァルトの演奏では、機会があれば、私は友人達の前で言葉にしています。そして、前回良かったからといって、次も同じように演奏しようとしないことです。これが退屈になる原因になります。次はもっとさらなる少しでも次の演奏をしなければなりません。

かなり専門的な話になってしまいました。
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聞き手の自由、読み手の自由 [音楽の話題]

ある曲について、その作曲家の国の自然をイメージする人が多いが、それだけがこの曲の良さではない、みたいなことを言っている人がいました。多くの人が聞き取れないものを聞き取ることができるということを自慢したいわけではなく、そういう、それ以外のものを聞き取って欲しいということなのだろうと思います。

話は変わりますが、有名な国語の試験があります。ある小説が試験に出されましたが、その答えを見て、小説の作家がそういうつもりでは書いていないと、答えにクレームをつけたのです。このことは、作家がこういうつもりだと書いても、読み手はそういうふうに受け取るとは限りらないことを示しています。そして、作家が正しいとも言えないし、読み手が正しいとも言えません。

日本では国語の勉強で、ここの主人公はどういう気持ちだろうか、などを取り上げますが、だいたいが先生の言うことが正解のように教えられます。しかし、小説などの架空では真実というものはありません。99人が同じように受け取り、残りの一人が異なる受け取り方をした時、その一人の受け取り方は間違っているということは言えません。滑空の話なので、真実はないのです。現実の問題として、一人の人間のある行動について、周りの多くの人間が誤解をし、真実は異なるということはよくあります。つまり、小説では、どういうふうに受け取るかは全く読者の自由なのです。それは国語の読解力にも関係していますし、知識や経験の多さにも関係はありますが、決して正しく受け取らなければならない、ということはありません。間違った捉え方をしてもそれは自由なのです。そして、自分の受け取り方を押し付けることは意味がありませんし、他人の受け取り方を間違っていると言うことは根拠がありません。

音楽も同じです。ある演奏を聴いて、そこから何を感じるかは、聞き手の自由なのです。そういう聞き方は間違っているということはおかしなことですし、このことを聞き取らなければ不十分である、などということもおかしなことです。感じるということは一般にはコントロールできることではなく、自分の精神を自由にしているならば、何を受け取るかは全く自由で予測もつきません。もちろん、多くの人が退屈と感じる演奏に涙を流す人がいてもおかしいことではありません。自分が自由に感じたことをそういうものとして認めるのと同じように、他人の感じたことにも同じように尊重することが大事だと思います。

こういう問題ではいつもモーツァルトを考えます。素晴らしいモーツァルトの演奏は、クラシック音楽に詳しくない人も楽しませますし、口うるさい通も満足させるものです。誰もがそれをそれぞれに楽しむことができます。そういう演奏は間違いなく素晴らしいと言えます。聞き手の自由を尊重して、演奏家は誰でもが喜ぶような演奏を目指すといいと思います。
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