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その先を目指すこと [音楽の話題]

Gackt氏は、一度来てコンサートを気にってくれた人が、次に来るときには前回以上を期待する、だから常に前回以上をやらないとダメだ、と言っていました。小澤征爾氏も、ボストン響時代のことを、素晴らしいオケでも常に次を目指してやらないといい演奏はできないと言っていました。以下は、そういうことを思い出してしまった話です。

N響の定期演奏会はテレビでも見ることができますが、パーヴォヤルヴィ氏がマーラーについて述べていて、字幕とナレーションでは、明確に自己表現をすることが必要だ、となっていましたが、本人の発言はneed to exaggerateであり、私の拙い英語力ではありますが、この訳はは完全に間違っています。クラシック演奏においては、楽譜から読み取ったことを表現することが大事で、その際に演奏家によって把握する内容とその表現はかなり異なるものですが、それは自己表現ではありません。自己表現という言葉で表現されるものは一体なんなのかを考えると、クラシック音楽においては、自分の解釈を表現することとなるのしょうが、解釈というものは、楽譜にないものを持ち込むことをも意味していて、そうでない場合は解釈とは言いません。つまり、ヤルビイ氏の英語をそう訳すのは間違いを越えて、演奏に対する偏見を持ち込んでいるのです。さらに、マーラーの交響曲5番の冒頭のトランペットの独奏部分で、彼が棒を振らないことを、この自己表現に関連づけていましたが、指揮者はオーケストラをまとめることが仕事であるなら、これは当然で、前述の発言とは無関係と考えられます。

さて、ここからが本題ですが、実際の演奏では、冒頭のトランペットはタクトに合わせて体を振って演奏しており、これだと長い音符の長いという表現ができないはずで、あれ、という感じでした。それを見た人は長いという理性的判断はできますが。続くバイオリンのメロディは長い音符と短い音符の強さが異なり、つまり、下手な市民オケではよくあるように、短い音符が弱くて聞こえにくいのでした。これも初歩的な事なのですが、後に出てくる管楽器による同じメロディの部分ではきちんと聞こえてきたので、指揮者の指示ではないようです。4楽章ではルバートはあたり雨ですが、伸び過ぎることが多く、タクトが感じられず、まるで酔っ払いが弾いているような演奏でした。全体的には、もちろんフォルテで威勢の良いところは安定した技術で素晴らしいのですが、フレーズとフレーズのつなぎ目が不自然な箇所が多く、イライラする演奏でした。録画でしたので、もう聞くのやめようかと思ったくらいです。そして、これがN響の現在の実力かと思って、冒頭のことを思い出してしまいました。

演奏後はブラボー(ということは、厳密に言うと、単数形でヤルヴィに対する賛辞になりますから、オーケストラも含めるならブラヴィーが好ましいですが,。これが広まるといいと思います。ブラヴォーサービスの方々は是非ご協力を)の大拍手でした。録音では気になる部分も、生演奏では響きに注意が向いたりしますから、全く違う印象になることは当たり前で、これは当然といえば当然です。本来ならば録音ではなく、生演奏を評価すべきなのだとは思います。
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