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漫画やアニメの日本文化 [教育]

葬送のフリーレンというアニメを見ています。ある話では、魔族の話でした。このアニメの魔族は自分の自然に表れる魔力のレベルを隠さないというプライドがありますが、人間に対しては平気で嘘をつき、また平気で人間達を殺します。それなのに、人間は魔族の嘘に簡単に騙され、魔族の計画に意図せず参加して、自分達の破滅へと物事を進めます。とても面白いです。フリーレンにはまだ色々な話が出てきますが、本当にこれが、少年漫画の週刊誌に載っているということで、日本の漫画、アニメの素晴らしさを示しています。

鉄腕アトムには、本編以外にも色々な話がありますが、今はもう読めないものもあるでしょう。私がずっと覚えている話は、正義の味方のアトムに対して、悪事を行う自立型ロボットが出てきます。そのロボットは、正しいということしかできないアトムに対して、悪事を行えるということは、アトムより俺の方がロボットとして優れているのだ、と言うのです。アトムは正義を行う自分に疑問を感じていませんでしたが、悪事を行う方が優れたロボットだ、という言葉に悩みます。この話は本編にはないのですが、これも少年少女向けの話として書かれているのです。

子供達にはわかることを教えればよい、としたゆとり教育がどれだけ教育の価値をないがしろにしたかかがわかります。大切はことは、難しいくても、最初から教えなければなりません。それが教育です。今も続いているゆとり教育はすぐに廃止しなければなりません。

もちろん、すべてのアニメが素晴らしいとは言えません。正義の味方のはずが、平然と脅しを使って相手を言いなりにしようとしたりするのです。脅しも、今の社会では役人が使ったりしているくらい、頻繁に見られるものですが。

以上、鳥山明さんが亡くなる前に書いたものですが、アップするのが遅くなってしまいました。大好きなドラゴンボールのアニメは深夜に何回も再放送されていますが、毎回見たりして、今も見ています。
ご冥福お祈りいたします。



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今更ながら、モンティ・ホール問題について [教育]

モンティ・ホール問題とは、三つの扉の一つに当たりがあるので、どのドアかを当てる、その確率の問題で、プレーヤーが最初に選んだ後に、モンティが残りのドアの一つを開け、はずれのドア一つを示した後、再度プレーヤーはドアの選択を変えることができます。マリリンは選択を変える方が得としたのに対し、多くの数学関係者などが選択を変えるメリットは全くなく、どちら同じ確率としたお話で、興味ある方はWikipediaをご覧になって下さい。
さて、ある塾の中学生用の確率問題で完全に確率を誤解する問題と回答があり、中学生につまりは嘘を教えることになる、そういう塾があるのですが、以下を見ていただくと、そういう間違いも見つけることができるのではないかと思います。改めてモンティ・ホール問題を考えたので、問題の理解が難しい方も以下をご覧ください。Wikipediaの解説はほとんど見ていないのですが、以下はそれとは異なるかもしれません。独自の説明です。

確率では確率空間というものをしっかり作ることが大切です。それは、何が等しい確率かを決めることです。モンティ・ホールでは選択は3度あり、それぞれ何が等しい確率かを考える必要があります。プレーヤーがドアを選択するのは3通りありますが、どれも同じ確率とすれば、確率区間を決めたことになり、ドアAを選ぶのは1/3になります。もちろん、モンティがあたりを決める場合も同い確率とすればどのドアもあたりの確率は1/3です。多くの数学者が勘違いしたのは、モンティが開けるドアを選択するのを同じ確率としたのですが、実際にはこれは同じ確率にはなりません。なぜなら、もし、プレーヤーが選択したドア以外に当たりがあれば、モンティはそのドアを開けることができないからです。

以下場合分けして、条件確率の計算ができるようにしました。ドアはA、B、C、当たりを濃い色ドアで、プレーヤーがAを選択した場合で示しますと次の3通りがあり、それぞれ1/3の確率です。
Monti-Hall-1.png
それぞれの場合にモンティが選ぶ場合を考えます。図ではモンティの開けるドアをバツで示しています。
1の場合はBを選ぶ場合とCを選ぶ場合があり、それぞれ選ぶときの確率は1/2です。2や3では選ぶことはできず、ハズレのドアを開けるのみなので、この時の確率は1になります。
Monti-Hall-2.png
ということで、プレーヤーがドアを選んでからの最終的な確率はこのようになりました。モンティがBを開けてハズレを示したとすると、今のままが当たりは1/6、残ったドアが当たりは1/3になります。Cを開けても同じで、マリリンの答えの通り、ドア選択を残った方に変える方が確率は2倍になります。ポイントはモンティが開けるドアを選ぶ確率はそれまでの条件によって変わり、2や3の場合は等しくないということに気がつくことです。条件付き確率の難しさと言ってしまえばそうですが、条件によって確率変わることがあることはほとんど知られていないのです。

ところで、確率空間をきちんと設定していない問題を使って、中学生に確率を教えている有名塾があります。めちゃくちゃな間違いを教えているわけです。気をつけましょう。


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論理的思考をしよう [教育]

ワクチンは効くという話があります。だからワクチン接種をしましょう。
これは論理的な思考ではありません。

最近は、音楽以外の話が多いのですが、今回も音楽ではない、論理的思考についてです。
論理的思考は数学の証明の手段であり、同じ思考でも帰納的思考法は、数学では条件が厳しい数学的帰納法でしか使われません。その前に基本知識として言葉の話をします。英語で申し訳ないのですが、中学できちんと習うのでついてきてください。proofとevidenceの違いです。英英辞典には載っていると思いますが、proofは数学と同じで、正しいことがわかる証明のことです。evidenceはそのことが正しいと信じるに相当することを言います。つまり、信じる根拠がevidenceで、正しいことを知る根拠となるものがproofです。信じると知るにある根本的違いは重要です。

帰納法はevidenceになります。つまり、たとえば、ある政党の政治家が嘘をついた、その党の他の政治家も嘘をついた、さらに他の者もとなったら、その政党は嘘つき集団である、と結論できます。これを帰納法と言います。あるいは、この結論を信じてしまうことをパターン思考と言います。パターン思考はパターンを常時使うことです。しかし、現実には必ず例外があります。このことはGeneral Systemという分野では知っておくべき基本ルールです。例外のないルールはない、というルールですが、このルールだけは例外がないのです。帰納法は難しい現実ではよく使われ、パターン思考は面倒臭い論理的思考をしなくて済むので便利で、両方とも方法として間違っているわけではなく、有効に使えます。

論理的思考法はまさにproofそのものです。これはかなり厳密に使います。まず、仮定を置きますが、仮定自体は正しくなくてもいいのですが、論理を進めるには、仮ではあっても正しいとしなくてはなりません。そこから論理関係で正しいもの、を結びつけていきます。数学でいう定理を使うわけです。現実には因果関係なども使います。論理的思考とはこれだけです。

最初に述べたワクチンは効くという話がある、は仮定です。さて、ここでは何を正しいとしているのでしょうか。実はワクチンが効くではありません。それが正しいとするなら、話があるは無くし、ワクチンは効くを仮定にしなくてはなりません。ですから、ここで仮定されている正しいことは、話がある、という部分です。話の内容が正しいかどうかは全く論外のことです。ですから、結論にワクチン接種をするはまったく論理的に関係ないことです。論理的思考ではないのです。帰納的思考法でもありません。どのくらい多くの人がそういう話をしているかがわかっていませんし、むしろワクチンは危険という話もあります。

これで、論理的思考をするということがどういうことかわかると思いますが、言葉で説明すると面倒臭いですが、これに慣れていれば、例にあげた話はその瞬間に、論理的思考ではないとわかるようになるので、普段から論理的思考をし、正しい正しくないを自分なりに判断するようにするといいと思います。

また、論理的思考によって現実を知ることができます。これは大変役に立つことです。アガサ・クリスティのシリーズには、ミスマープルというのがあります。これは外出しないミスマープルが新聞の記事から真犯人を当てるというものです。記事から矛盾に見えること、おかしなことを論理的思考によって解き明かし、嘘なども見抜いてしまうのです。これはフィクションですが、わかりやすくするために、単に例としてあげました。実際に報道される内容には多くの嘘や矛盾がありますが、論理的思考をすれば、誰でもが納得できる真実をつきとめることができるでしょう。また、洗脳などの刷り込みを防ぐこともできます。


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体操協会の欺瞞に関して、第三者の意味 [教育]

普通の理性があれば、体操協会の塚原夫妻の欺瞞は明らかですが、今の日本ではこの普通がわからない人間が大勢増えているように思います。

第三者というのは、民事的な争いの場では、専門の法律用語ですが、どうもその理解には、英語教育の悪影響があると思わざるを得ません。なぜなら、弁護士でさえ、第三者というものを理解しているとは言えない発言をするからです。

日本の義務教育では英語教育はほとんど行われていません。それは英語ではなく、日本語教育の中の英語という分野であり、いわば漢文と同じような教育なのです。漢文を中国語の勉強と言わないように、英語教育は英語の勉強ではないのです。英語は得意ではありませんが、きちんと英語の勉強をした私にはこんな明確な事実を、日本の英語教育関係者が誰も理解していないことは、本当に驚きです。

英語では、weと呼ぶのを第一人称、first person、youと呼ぶのを第二人称、second personと言います。そして、どちらとも呼べないものを第三人称、third personと言います。これを理解していないと、第三者を理解できません。もし、友人であっても話している相手はyouです。そのとき別の人間を話題にしていれば、それはthird personです。そこへ、当人がやってきて話に加わるとどうなるでしょうか。その時、もし、当人がどちらの側にも立たなければ、それはyouになります。最初の二人からしてもyouになります。つまり、三人ともが、一対二の関係の、Iとyouになるのです。

日本語で考えてみると、話している相手をあなたや君と呼ぶことはほとんどありませんが、たまにはあるかもしれません。多くは主語を省いて話します。そこに出てくる人物は、通常名前を使い、彼や彼女は使いません。これを使うときは別の意味です。当人が来ても同じように名前を使い、話に参加していない時といる時とで違いはありません。日本人は第三人称という概念を使ってはいないのです。

英語では、Tomと言った後、Tomを話題にするときは、必ずheを使います。あれ、と物を指示した後もずっとあれを使ったりしますが、英語ではthatを使った後は必ずitを使います。代名詞を使うことが同じものを示すことになります。だから、日本語には代名詞はない、という国語学者もいるほどですが、私もそう思います。時々、彼、彼女を代名詞のように使った文がありますが、これは英語教育の影響で使う例と考えられます。日本語では第三人称の概念を使っていません。繰り返しになりますが、話に参加していない人間と参加している人間を区別して呼び方を変えることはしないのです。

第三者という言葉は、この第三人称の概念を知らないと、弁護士であっても、正確には理解できないと思います。
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火を見るより明らか [教育]

火を見るより明らかをインターネットを調べると、驚くべきことが書かれていました。これの別の使い方として、火を見るよりも明らか、火を見るように明らか、の使い方が出ているのです。中には辞書サイトで「よりも」を使っているところがありました。

この言い回しの出典は尚書・盤庚上と言われています。調べてみると「よりも」という意味では使っていないようです。盤庚上では「ように」の意味です。そもそも火を見ることで火がわかるのに、それ以上に明らかということは、かなり哲学的な内容なのか、あるいは、不可能性の例えとして使っていることになります。日本語にはこのような不可能性を示す言い回しがたくさんありますから、日本人に好まれる表現かもしれません。昔から使われている有名な辞書にも間違いがありますが、出典から考えるならば、この「よりも」も間違って使われてきたものであり、この「より」は、によっての意味であると捉えるべきでしょう。

細かい話ですが、この言い回しがが正しく使われている場合、「火」が現実の物事の例えとして使われているのか、「火を見る」が現実の行動の例えとして使われているのか、という二つの使い方ができます。前記の日大アメフト部のように、ビデオや他者の証言があるので、これを火として例えることができます。一方、具体的な直接証拠がない森友、加計問題は、「火」はありませんが、様々な状況証拠から論理的に判断できるので、この判断行動を「火を見る」と例えることができます。
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無責任な意見 [教育]

団体というのは人格を持たないので、責任とかは全くありませんし、考えなどというものも持つことはできませんが、総意や決定というのはあります。これと、日本語は主語を言わない、書かないというのが一緒になると、不思議な文章や誤解というものが生じます。それが、一般人であればたいして問題になりませんが、マスコミや公式文書を作成する事務員でもよくあるので、日本語教育、つまり国語の教育がどうも劣化しているように思います。

日大広報部名で、危険タックル事件に関連して作成された文書に、「・・・と思います」という意見が書いてあったのですが、この主語は誰かと考えてしまいました。これが広報部の総意であるなら、違和感のある表現で、考えの根拠を示し、判断しました、と書くべきところです。意見は自由に持つことが憲法19条で定められていますが、その責任は意見を言った人間にありますので、誰の意見かという人格を示さなければなりません。ですから、基本、団体は意見を言う権利というものはなく、判断、決定として述べるべきです。団体名で意見を言うことは、大きな誤りです。しかし、無責任な人間は団体を使ったり、責任の所在がわからない、ナレーターなどによって、意見を言います。

国家公務員による損害などは国が代行します。それは憲法17条で定められているからですが、これによって公務員の責任が国というものにすり替えられている現実があります。国は人格を持ちませんから、責任は持てません。しかし、国の責任という言葉で勘違いされてしまっているのが現実です。
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小学生にプログラミングは不必要 [教育]

プログラミングの教育用ソフトウェアとして、Logoというのがあります。これを私は中学生に教えていました。理由は、中学生になると思考力が発達し始めます。それに合わせて使ったわけです。しかし、それは中学3年生からでした。それ以前にはパラメータをいじってモジュールを組み合わせてゲームを作るなどの遊びをやったこともあります。これは勉強というより、休憩時間に脳の血流を変えてリラックスさせる意味でやっていました。

昔、自民党議員から小学生の頃からパソコンの勉強させたらどうかという話があり、全く不必要なこのようなことをやろうとするのは、単に教育における問題点がわかっていないからなのでした。物事を良くするのは基本的に、新しいことをすることではありません。教育は多くの新しいことを教えることと思うなら、大きな間違いです。一人の理想的な人間というものを想定し、それに欠けている部分を補うのが教育です。教育改革は、日本ではいつも新しいことをやることと政治家や官僚は考えていますが、これ自体が大きな間違いで、現在ある教育問題を根本的に解決することが教育改革になります。

そもそも子供は小さい頃から周りの大人を見て自分の中に大人の理想像を作ります。ですから、幼児の頃から周りの大人は理想的な人間として見えるように用事と接することが教育となります。思考力が発達し、自分で理性的判断ができるようになるまで、これはずっと続きます。思考力が発達するのは、思春期に入る頃からです。思考には、考えるための材料となる知識が必要です。ですから、思春期前までに多くの有意義な知識を入れることが大事です。

さて、小学校でのプログラミンはどういう大人を措定しているのでしょうか。そもそも学校の先生自体がプログラミングができないのに。もちろん小学校からの英語も外国人の先生を呼んで行えばよいというものではありません。他の先生が英語ができなければ、それが手本になってしまうのです。

教育に携わる先生というものは、上の学校に行くほど、いわば手当も高くなり、先生として難しい仕事と思うなら、それは大きな間違いで、一番大事な先生は幼児期から低学年の頃なのです。なぜなぜそれがそのままお自分が目指す大人像に結びつくからです。両親や家族もそうなります。幼児の話し方を聞けば、両親がどういう話し方をするかがわかるくらいです。

大人の理想像とは、決して聖人にすることではありません。子供の周りの大人は、手本にされてはまずいことをしないようにすることが大切です。例えば、嘘をつかない、約束を守る、いじめない、悪口を言わない、やらなければならないことはやる、などです。自分はできないが、子供にはそういう大人になってもらいたくない、などというのは期待しないほうがいいでしょう。反面教師などの悪い見本が有効なのは、やはり自分の判断ができるようになる思春期以降のことです。もし、自分には無理なことがあってもそれに向かって努力することが、子供には良い手本になります。
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