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漫画やアニメの日本文化 [教育]

葬送のフリーレンというアニメを見ています。ある話では、魔族の話でした。このアニメの魔族は自分の自然に表れる魔力のレベルを隠さないというプライドがありますが、人間に対しては平気で嘘をつき、また平気で人間達を殺します。それなのに、人間は魔族の嘘に簡単に騙され、魔族の計画に意図せず参加して、自分達の破滅へと物事を進めます。とても面白いです。フリーレンにはまだ色々な話が出てきますが、本当にこれが、少年漫画の週刊誌に載っているということで、日本の漫画、アニメの素晴らしさを示しています。

鉄腕アトムには、本編以外にも色々な話がありますが、今はもう読めないものもあるでしょう。私がずっと覚えている話は、正義の味方のアトムに対して、悪事を行う自立型ロボットが出てきます。そのロボットは、正しいということしかできないアトムに対して、悪事を行えるということは、アトムより俺の方がロボットとして優れているのだ、と言うのです。アトムは正義を行う自分に疑問を感じていませんでしたが、悪事を行う方が優れたロボットだ、という言葉に悩みます。この話は本編にはないのですが、これも少年少女向けの話として書かれているのです。

子供達にはわかることを教えればよい、としたゆとり教育がどれだけ教育の価値をないがしろにしたかかがわかります。大切はことは、難しいくても、最初から教えなければなりません。それが教育です。今も続いているゆとり教育はすぐに廃止しなければなりません。

もちろん、すべてのアニメが素晴らしいとは言えません。正義の味方のはずが、平然と脅しを使って相手を言いなりにしようとしたりするのです。脅しも、今の社会では役人が使ったりしているくらい、頻繁に見られるものですが。

以上、鳥山明さんが亡くなる前に書いたものですが、アップするのが遅くなってしまいました。大好きなドラゴンボールのアニメは深夜に何回も再放送されていますが、毎回見たりして、今も見ています。
ご冥福お祈りいたします。



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安全性の欠けた日本 [社会問題]

JRは、税金を投入して、国鉄が民営化されたものです。大量の税金投入には批判がありましたが、もちろん、今だに全く返還などはされていません。さて、当時の国鉄は安全性という点では、日本で一番であったでしょう。多くのメーカーなどもこの考えを取り入れて安全性に取り組んだはずです。今でも大型機械を使う工場では、事故などはちょっとした怪我でも皆無ではないかと思います。人間のミスは必ず生じます、その時にも事故を起こさないようにする、そのために二重三重にチェックする、なんてことは、当たり前なことで、安全性の専門家でない素人でも思いつくでしょう。だから、JR西日本で脱線事故は、起こるべくして起こった事故でした。国鉄時代の安全性はどこにもありませんでした。

大きな事故は突然起こるわけではありません。その前に警鐘となる小さな事故などが何度か起きているのです。ですから、小さな事故が起きた時にきちんと対策することで、大きな事故を防ぐことができます。たとえば、あるメーカー工場では事務部門でカッターでつい指を怪我してしまった、ということだけで会議が開かれ、対策が取られるのは当たり前だったのです。JR西日本ではこのような警鐘となる事故が何度か続いており、しかもそれはニュース報道される規模で、決して無視できないものだったのです。それに対して全く何もしていなかったのでした。

さらに、この警鐘となる小さな事故さえも起こさないように、さらなるルールがあります。あるメーカーでは、事故にならなくても危ないというひやりとしたこと、あるいはこれは危ないとはっと気づいたことなどを、単なるラッキーで済まさずに、きちんと報告するというルールです。そして対策が取られます。

羽田空港では、一つの人為的ミスで事故が起きてしまったように見えますが、実はその前にこのような危ないけどなんとか防いだ、とかが何度かあったはずです。こういうことを無視しないことが安全性の専門的知識なのです。

この考え方は一般人の日常生活でもとても大切になります。だから、教育でも、本来なら取り上げるべきことですが、今でも続いているゆとり教育というレベルの低い教育では完全に無理なのはとても残念です。
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イヤホンのエイジング [単なる噂]

私は、Bluetoothイヤホンも使いますが、音楽を聴くときはわざわざBluetoothレシーバーを使って、お気に入りのイヤホンやヘッドホンを繋いで聞きます。イヤホンは購入したら長時間鳴らしてから使うと良い、という話は昔からあり、エイジングで音が良くなることはないという意見もありますが、最近は中国メーカーの中にはエイジングは必要としていたりします。

中国製で、かなり安価で売り出しているバランスドアーマチュアを使ったダブルドライブがあったので、久しぶりに有線のイヤホンを購入したら、エイジングしなくてもびっくりするくらい良かったので、その後も安価になっているベリリウム振動板や平面駆動などをつぎつぎと購入しました。クラシック音楽をよく聞くので、ポイントは低音のコントラバスが聞き分けられることで、そんな高級なイヤホンでなくても低音が聞こえれば良いので、とりあえずこれで落ち着きました。

そして、最初に購入したものは、その後に比べるとややうるさい感じでしたので、主に音楽以外で使っていましたが、まだ大して鳴らしていないので、これにyoutubeにある効率的なエイジングをやってみました。びっくりです。低音がやや出てきて、うるささも減りました。他のイヤホンもそのうちやってみようという気になりました。

エイジングなんて不要と思ってましたが、こうなるとこの違いの原因が気になります。バイオリンなどの楽器の場合、振動により楽器の水分子などの自由に動ける粒子は移動します。また、振動の節である接触部ではほこりなどが固着しないことにもなるので、普段から鳴らしておくことが必要です。イヤホンではそういう部分は少ないと思いますが、振動板表面にほこりがついているくらいはありそうです。やはり微妙ですが、エイジングで改善されることはあり得ます。もちろん、エイジングは普段聴いている音楽で良い、という意見もありますが、それは本当にエイジング、つまり古くなるだけで、そもそものエイジングが必要という意味では、全ての周波数を鳴らす方がいいでしょう。

ただ、エイジングはやはり聴く音楽によって不要な場合もあるでしょうし、上記の理由ならエイジングせずにそのまま使うだけで十分な場合は多いと思います。そして長時間ではなく、ボリュームを抑えながら効率的なエイジングを一度くらいやればいいかなと思います。
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言葉のない練習 [音楽の話題]

高校生の頃、文化会館にある有名な日本人指揮者がシベリウスの交響曲2番を聞きに行きました。友人達はあまり良い演奏ではなかったと言いいました。私も同感でしたが、なんかその指揮者はもっと良い演奏をするという期待感がありました。応援の意味で、演奏が終わったら声を出しました。

その数年後、学生のアマオケに入団しようとしたら、次の公演はその指揮者でシベリウスの2番をやると聞いてびっくり、練習最初の頃の弦だけの練習に、なんとその指揮者が来ました。アマオケの弦練に来るというのは今では考えられないくらい珍しいことです。その時に最初にやったのはモーツァルトの40番の第2楽章でした。1年目は2nd Vnになるのですが、たまたまトップサイドに座らされ、目の前の棒を見ながら弾きました。すると、何も注意を言わずもう一度、と言い、それから何度も出だしの部分を繰り返しました。何か注意はされたかもしれませんが、無言で何度も繰り返し弾かされたことが強く記憶残っています。  

指揮者や共演者が、言葉でこうしてほしいということは普通にあることですが、そういうことを言わずに繰り返しやることもよくあります。プロならばもちろんですがアマでも、演奏することでその時の修正点を見つけます。特に初めての共演ともなれば、お互いの音楽のイメージが異なったりするので、合わないことなどは普通にあります。よく聞いて合わせる、という言葉がありますが、これは言葉通りの意味ではなく、聞いて修正することを意味しています。厳密に言えば、聞いてから次の音を合わせるのでは必ず遅れます。合わせるのではなく修正というのが厳密な意味です。だから合っているときは、聞いて合わせているのではなく、修正もなく、一緒に演奏しているというイメージです。

最近は言葉で説明することが増えているのではないかと思います。またそれによって、アマチュア演奏家はあまり聞いて修正せず、言葉の説明や指摘を待つという姿勢になっています。自分で自分の演奏の修正をしていないのです。これは演奏家として自立していないことを意味します。それは依存していることで、常に先生から指摘されないと上手にならないと勘違いしており、さらに指摘がなければ問題ないという勘違いもしているのです。こういう自立していない演奏家は上手になりません。

アイドルグループでは、卒業という言葉が使われます。しかし、卒業とは何かを習得することで生じることであり、アイドルグループから抜けることは卒業とは言えません。こういうふうにして間違った言葉遣いをすることで、その言語はいわゆる堕落し、本来の意味をなくし、あるいは曖昧にし、文化を破壊して、人々の意思疎通だけでなく、思考もがうまくできないようになります。学校の国語の授業で言葉を正しく使いましょう、と教わったはずなのに、多くの人はその意義や価値を理解できず、好き勝手に言葉を使っているのです。さて、卒業の意味にはもう一つの面があり、それは自立です。アイドルグループから卒業するということは、この面については、共通しているとは言えます。

自立した演奏家になる、ということができれば、言葉による説明や指示を求めるのではなく、自分で演奏の修正をすることができます。だから、練習することでどんどん上手になります。もちろん、勘違いしてはいけませんが、自立していることと、先生に教わることは全く別のことです。自立とは全く関係なく、別に段階というものがあり、自立はその一つの重要な段階です。そのために先生に習うのは効率よく、自立した後でも普通にあり、逆に言えば子供の早い段階からも自立している場合があります。自立せずに先生に習うと、指摘されたことだけしか修正されません。自立することで自分の抱えている問題に対して自分で対処する姿勢をもっているので、練習することで修正でき、どんどん上達します。それが人から言われなければわからなければ、指摘された問題点以外は残り、新たに発生する問題にも気づかないので、先生の最低限の指摘だけでは、ほとんど上手しません。しかもその指摘は時間とともに忘れてしまったりもします。

自立した演奏家同士ならば、ある程度は言葉なくても繰り返し練習で修正ができます。そういう練習ができるかどうかで、自立しているかどうかの判定にもなるでしょう。

最初の話も戻ると、この有名な指揮者の方は、未熟な私達を、自立した演奏家として扱ってくれたのかもしれないと、今になると思うのでした。
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バイオリンの練習の方向性が間違っている [偉そうな一言]

ズーカーマンは、小さい頃から難しい曲を弾きすぎる、と言いました。ズーカーマンが言っても本人も当然小さい頃から難しい曲を弾いていたわけで、説得力がないように思えますが、逆に言えば、それがあるからこそ、難しい曲を小さい頃から弾く必要はないと言えるとも考えられます。若い演奏家を見て、本当に難しい曲を弾くので、さらにそれがそう言わせた直接のきっかけでもあるでしょう。

映画「シャイン」の中で、天才ピアニストの少年がラフマニノフを弾きたいと言いますが、先生はまだ早過ぎると言って弾かせません。そんなことがあるのか、と疑問を持ったり、やっぱりそういうものだ、と納得したりするかもしれません。

晩年のオイストラフが日本に来る、最後の来日だろう、一体何を弾くのだろうと想像を逞しくした人は多かったと思います。やはりチャイコフスキーか、それとももっと驚くような大曲か。ところが持ってきたのはモーツァルトの協奏曲でした。

モーツァルトは多くの子供が演奏します。しかし、歳を取ってから、あるいは長い演奏活動からでは、モーツァルトの演奏は全然違います。それが子供の頃とは全く異なる演奏になっていることは明らかでしょう。全ての曲が、そういうものを持っています。もちろん何事においても、若い時には気がつかないのに、歳をとり、経験を経ることで気がつくようになります。ラフマニノフも同様です。しかし、一般に、ラフマニノフというロマン派の曲は、それまでのバロックや古典派の曲を知っているかどうかで、感じ方はだいぶ違います。音楽の歴史は単に並んでいるものではなく、音楽そのものがいろいろな方向に発展しているのです。例えばいきなり多調音楽をやってもその面白さを知ることはできないでしょう。発達というものには順序があります。たとえば、バイオリン初級者の段階ではポジションを正確に取ることが大事ですが、それができたらポジションの制限はむしろ取り外した、拡張した弾き方も練習します。しかし、これを初級者に教えることは、完全に無駄なことになり、やらない方がいいのです。順序が大切です。

ズーカーマンの言葉の意図は、子供の時あるいは初級段階では、難しい曲を弾かずにもっと音楽性の鍛錬をすべきだという意味だと思います。テクニックに偏りすぎだとも言えます。フルーティスト吉田雅夫氏は、最近の学生はモーツァルトはつまらないと言うのだから驚いた、と言っていましたが、欧米からは日本はクラシック音楽後進国と思われていた時代、何十年も昔のこととはいえ、既にモーツァルトの素晴らしさを感じる学生が少なかったことを示しています。テクニックしか興味ないといつまで経ってもモーツァルトの音楽を知ることはできないでしょう。現代において、ズーカーマンは東洋人の若手演奏家がいる前で前述のことを言ったのですが、特に日本はテクニック重視の傾向が顕著になってきていると思います。

プロでもテクニックが衰えても演奏している演奏家がいます。概ね、日本では評価は悪いです。プロは厳しい世界で、一度でもひどい演奏をすると評価が一気に下がります。そして、商売でもある演奏会はなかなか大変になるでしょう。しかし、これは逆も言えて、衰えたテクニックで評判が芳しくない演奏家が、一度でも本当に素晴らしい演奏をすると、それ以後それを聞いた人々はファンになってしまうのです。テクニックの衰えたプロの演奏家にはそういうファンが付いています。

特にクラシック音楽にはテクニックは必要ですが、最初から音楽を演奏するということをやらなければ、いつまでたってもテクニックだけの退屈な演奏になります。しかもそれは、子供の時に弾いた素晴らしいモーツァルト演奏より酷く退屈になります。昔と同じように演奏しようとし、そうではない、音楽を感じて弾いていた子供の頃の演奏ができないのです。ピレシュが若いピアニストを指導していたとき、非常に細かいテクニックを教えるのですが、それとは全く異なり、いわば抽象的な指導、つまりは音楽的なことについてもしっかり指導していました。きちんと両方を指導していた、という見方もできますが、むしろ大事なのは、テクニックも音楽という観点からの指導であり、目の前の音楽についてのすべて、細かいテクニックから大きな視点の捉え方などのすべてが音楽を演奏するという指導していたのです。

アニメでもテクニックだけの練習というものが扱われ、このテクニック傾向がますます広まる方向にあるように思います。しかし、大事なことは最初の段階からきちんと教えなければなりませんし、その方向で練習しなければなりません。指が正確に動くテクニックの練習であっても、それは何のためか、どういう演奏をしたいからかをきちんと自覚するようにしなければなりません。だからいわば上手になるためにテクニックを練習しているは、間違った方向です。そうではなく、この音楽を演奏するために必要だから練習するのです。最初から最後までずっと音楽をやるということ、そのために音楽を感じ、音楽の勉強をし、音楽から離れないことが大事です。音楽性という、何か難しい抽象的なことではなく、耳で聞く音楽というものを、演奏しなければなりません。
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楽譜通り弾くことはできない [偉そうな一言]

最近またTVで辻井君のCMが流れていたので、一言。
楽譜通り弾くのはつまらない、という言葉ですが、最初に聞いた時に、楽譜通りに弾くってどういう意味だ、と考えてしまいました。もともとバイオリンは一音を弾くだけでもいろんな弾き方があります。だからどういう音で弾くかはかなり選択肢が多いのです。ピアノとは違うのですが、問題はここではないでしょう。音楽は本来頭の中にあります。作曲家がそうですし、演奏者もそうです。それを演奏者は現実の音にし、作曲家はそれを楽譜として書き残します。音楽は楽譜の向こう側にあります。楽譜そのものは音楽と関係していますが、それが音楽ではありません。楽譜から音楽を頭の中で組み立てます。そしてできた音楽は楽譜とは異なる部分が多く、楽譜通りに弾くなんてことは不可能です。これについてはピアノという楽器がそういうことが起きやすいということがあるかもしれません。小説通りの映像はつまらない、ということがまったく意味不明であるのと同じだと言えます。

ピアニストの上手下手を判断するのはバイオリンより簡単です。つまり、ピアノは叩けば初心者でもそこそこ音が出ますが、それで音を並べると、本当に退屈でつまらないものになります。ところがピアニストと呼べる人が演奏するときちんと音楽が聞こえてきて、音が聞こえてくるという感覚ではありません。それはピアノが、いわゆる上手か下手かではなく、音楽を演奏しているかどうかの違いです。ピアノに比べると、バイオリンは音一つでもいろいろな音を出せるので、その音で誤魔化しやすいと言えます。もちろん、ピアノも和音など聞けば大体はわかりますが、バイオリンは音一つで練習量もわかったりするので、努力していることが見えてきて、そのために音楽を聞く前に上手と思ってしまうのです。

最近、あれっと思う、残念なことは、テクニックだけで上手いと言われることが増えていることです。テクニックが何かはかなりグレーな部分が多く、意見がいろいろ分かれるところですが、一番単純に言えば、細かい音を正確に弾ける、綺麗な音を出せる、つまりは、バイオリンで言えば、右手と左手の器用さがテクニックです。個人的にはさらにもっと専門的なテクニックというものがあり、パターン化できる演奏法は全てAIなどで置き換えることができるので、テクニックと言えるのです。ではテクニック以外は何があるのかというと、それが音楽の演奏と言えるところです。コンピュータが楽譜を自動演奏するのと人間の演奏の今般的な違いです。テクニックがあれば十分だとするなら、世界で一番上手なのはコンピュータ、つまりAIとなってしまいます。

テクニックがあることで満足するならば、コンピュータによる自動演奏とどこが違うかをよく考える必要があります。たとえば、私はここでルバートをしたりしてテンポを微妙に変える、しかしいつも同じようにそれを演奏したいなら、それはパターン化でき、データ化してコンピュータに真似をすることができます。それもテクニックなのです。人の演奏はその時によって必ず変わり、さらに共演者も毎回異なるので、それで猿翁全体も毎回変わります。どうして変わるのか、それは色々な条件が作用しています。そのようにして変わることは決して悪いことではありません。音楽を演奏するならば、因果関係に従って変化するものです。ここに音楽の秘密があります。頭の中のイメージは同じものなのですが、実際の演奏は微妙に変化し、ゆらぐのです。この因果関係に基づく必然のゆらぎがあるかどうかが一つの価値になります。それは、心が演奏を作るからです。楽譜やテクニックは必要ですが、決して音楽の本質ではありません。

富士山を見ると同じ時は一度もありません。毎回毎回異なります。しかし、それが、見る人に美しさとなるのです。アフリカのあるところに住む少女は特別な場所というものを持っていました。そこへ行くと美しい夕日が見られます。毎日見てもそれは美しいのです。音楽も同じで演奏するときには、たとえ毎回同じ曲、同じメンバーであってもその時のみの一回だけの演奏になります。繰り返し聞く人も、初めて聞く人も、その音楽の美しさを受け取ることでしょう。
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今更ながら、モンティ・ホール問題について [教育]

モンティ・ホール問題とは、三つの扉の一つに当たりがあるので、どのドアかを当てる、その確率の問題で、プレーヤーが最初に選んだ後に、モンティが残りのドアの一つを開け、はずれのドア一つを示した後、再度プレーヤーはドアの選択を変えることができます。マリリンは選択を変える方が得としたのに対し、多くの数学関係者などが選択を変えるメリットは全くなく、どちら同じ確率としたお話で、興味ある方はWikipediaをご覧になって下さい。
さて、ある塾の中学生用の確率問題で完全に確率を誤解する問題と回答があり、中学生につまりは嘘を教えることになる、そういう塾があるのですが、以下を見ていただくと、そういう間違いも見つけることができるのではないかと思います。改めてモンティ・ホール問題を考えたので、問題の理解が難しい方も以下をご覧ください。Wikipediaの解説はほとんど見ていないのですが、以下はそれとは異なるかもしれません。独自の説明です。

確率では確率空間というものをしっかり作ることが大切です。それは、何が等しい確率かを決めることです。モンティ・ホールでは選択は3度あり、それぞれ何が等しい確率かを考える必要があります。プレーヤーがドアを選択するのは3通りありますが、どれも同じ確率とすれば、確率区間を決めたことになり、ドアAを選ぶのは1/3になります。もちろん、モンティがあたりを決める場合も同い確率とすればどのドアもあたりの確率は1/3です。多くの数学者が勘違いしたのは、モンティが開けるドアを選択するのを同じ確率としたのですが、実際にはこれは同じ確率にはなりません。なぜなら、もし、プレーヤーが選択したドア以外に当たりがあれば、モンティはそのドアを開けることができないからです。

以下場合分けして、条件確率の計算ができるようにしました。ドアはA、B、C、当たりを濃い色ドアで、プレーヤーがAを選択した場合で示しますと次の3通りがあり、それぞれ1/3の確率です。
Monti-Hall-1.png
それぞれの場合にモンティが選ぶ場合を考えます。図ではモンティの開けるドアをバツで示しています。
1の場合はBを選ぶ場合とCを選ぶ場合があり、それぞれ選ぶときの確率は1/2です。2や3では選ぶことはできず、ハズレのドアを開けるのみなので、この時の確率は1になります。
Monti-Hall-2.png
ということで、プレーヤーがドアを選んでからの最終的な確率はこのようになりました。モンティがBを開けてハズレを示したとすると、今のままが当たりは1/6、残ったドアが当たりは1/3になります。Cを開けても同じで、マリリンの答えの通り、ドア選択を残った方に変える方が確率は2倍になります。ポイントはモンティが開けるドアを選ぶ確率はそれまでの条件によって変わり、2や3の場合は等しくないということに気がつくことです。条件付き確率の難しさと言ってしまえばそうですが、条件によって確率変わることがあることはほとんど知られていないのです。

ところで、確率空間をきちんと設定していない問題を使って、中学生に確率を教えている有名塾があります。めちゃくちゃな間違いを教えているわけです。気をつけましょう。


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上手いからこそ問題がある [偉そうな一言]

音楽をテーマにしたアニメの話書きましたが、日本のアニメには、見ない方が良いものもありますが、本当に良いアニメというものがあります。日本の文化なのです。最近では、ヴィンランド・サガや王様ランキングは素晴らしいです。個人的には、単に好奇心を煽るだけのアニメは、まったく見ません。飽きます。

さて、本題はここからです。音楽関係のアニメだけでなく、音楽番組なども見て、日本の音楽は危機的状況にある、という感じがします。上手であれば良い、という風潮があるからです。それもポップス、クラシックとも同じで、ミュージカルや演歌にも影響はあるでしょう。大きな原因はテレビです。テレビが音楽を破壊することを毎日やっているからです。

上手い歌手、上手い演奏、という言葉が意味するのはテクニックです。昔はテクニック以外の部分の評価が主でしたが、テクニックばかり取り上げられるので、上手いという言葉の意味が変わってきてしまいました。このことが上手い以外に音楽には何があるかをh知らない人々が増えたことを意味しています。すでに日本の音楽は堕落してしまった、と言えるでしょう。手遅れでないことを祈るしかありません。

音楽はいたるところにあります、いや、ありました。お母さんが歌う子守唄で子供は音楽を受け取ります。単純な言葉では音楽を聴いています、と言います。今、テレビやインターネットで音楽を聞けますし、街を歩いたり、電車を利用するだけでも音楽を聴ける、と言えます。しかし、これは音楽を知る最初のきっかけとしては全く好ましくありません。親が子供のために歌うこと、そこに音楽はしっかりあり、子供はそこから音楽をきちんと受け取ります。極端に言えば、テレビから流れてくる音楽は、子供には音楽には聞こえないのです。

学校の音楽の時間に歌を歌います。音楽のこの時間はとても楽しく、ここに音楽があります。カラオケで歌う、ここにも音楽はありますが、子供はそこに違いがあるのを感じます。もちろん、クラシック音楽をやってきた人の何割かは、カラオケは嫌いだったりするものです。なぜなら、伴奏者と歌手は相互に聴き合って演奏するものです。一方通行は音楽がないわけではありませんが、欠けたものがある音楽です。

音楽にはテクニックは必要ないということがわかります。ただし、人に聞かせるとなると、やはり聞く人が楽しめる程度のテクニックは必要です。テクニックは演奏する条件であって、それが音楽そのものなのではありません。ただし、もちろんテクニックがあればあるほど、音楽の持つ全ての価値を表現することが可能になります。だから、クラシックでもポップスでも練習するのです。だから、表現になっていなければ音楽の価値はかなり小さいものです。つまり、コンピュータが再生すれば、音楽になるわけではありません。音楽は人間が行う行為であり、どんな機械を使っても、そこに音楽を伝える人間がいなければなりません。

バイオリンはとても難しい楽器です。だから、それなりに弾けるようになるには、努力しなければなりません。しかし、弾けるようになってもそれはテクニックだけであり、実際に音楽を奏でなければ、そこには音楽はないのです。同じことを繰り返しますが、コンピュータがパガニーニを再生したとしてもそれは音楽ではありません。この違いを知る人間だけが音楽を奏出るべきとまでは言いませんが、これには違いがある、ということは、単なる知識としても知っているべきです。

例の「青のオーケストラ」の練習風景には音楽がありません。高校生オケであっても、人前で演奏するなら、音楽を奏でる練習をしなければなりません。たとえば、ここは焦った感じがするから、そうではなく、活気のある感じにしましょう、と言って、繰り返し練習をすればいいのです。ところで、オケではパートの音を聞いて弾く、というのは、パートの音に溶け込むように弾くということが大事です。これを知る知らないで響きが全く異なります。知らない人の方が多いです。

日本人のクラシック演奏家は本当に上手な方が多いです。しかし、日本では上手さばかり取り上げられるので、一つは現状で満足し、もっと上があるのにそこも目指さない、つまり、そのときから徐々に下手になってしまうのです。また、自分の上手さを示す演奏ばかりやる。聞こえてくるのは音楽ではなく、上手だという理性的判断しかありません。そうなるとまた聴きたいとは思いません。上手さは一度聞けばわかるからです。

現代は、特に日本では、音楽とは何か、それを追求するのが真の音楽家と言えるでしょう。
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歌が上手い? [偉そうな一言]

先日、テレビで歌唱力のある歌手というのを、同じ歌手などが推薦する番組がありましたが、驚きました。こういう番組があるなんて、J-Pop大丈夫か、と思いました。怒鳴ることばかりのJ-Popには、全く興味がない人間の感想です。

まず、夜の女王のアリアを繰り返して下品にしたものを頻繁に使っていて、なんというひどい効果、呆れました(-3点)。制作側にはこれが不快感を与えることがわからないのでしょう。
最後の方で、山下達郎さんや忌野清志郎さんが歌唱力があるとか推薦されて、呆れぶりのとどめでした(-2)。

誰が上手い歌手は誰かを、歌手そのものに聞くこと自体、非常に馬鹿げたことで、歌手を馬鹿にしています(-1)。こういう番組によって、歌のことをあまりわからない人は、歌を聴くときに、歌のうまさに注目してしまうことでしょう(-2)。しかし、山下達郎さんや忌野清志郎さんの歌を、どんだけうまいかなんて聞くのは、とんでもない失礼な話です。歌そのものを聞いてもらうために歌っているだろうし、そう聞くべきなのに、どれだけ歌が上手いかなんてことに注意させるような内容の番組は、本当にその歌手とその歌を馬鹿にしています。腹立たしことこの上なしです(-1)。

まだまだあります。プロは上手に歌いますが、毎回同じように歌えるわけではありません。だから、ものすごくいい時もあれば、今日はイマイチだったということは普通です。つまり、歌が上手いかどうか自体、意味がありません。繰り返しますが、歌手は歌が上手いのは当たり前なので、そこに注意すること自体、歌が聞こえていない人の話なのです。この時のコンサートは最高だった、というのならわかりますが(-1)。

ということで、ゴールデンタイムの関ジャムとかいう番組を10点満点から減点していき、0点となりました。

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これはクラシック音楽のアニメなのか [偉そうな一言]

「青のオーケストラ」というアニメが全然面白くありません。高校のオーケストラクラブ活動で、クラシック音楽がテーマかと思いましたが、いじめというテーマを暗く扱ったりしてます。それに音楽に関しても、あれというシーンばかりです。

violinのパート練習はパート全員でただ一緒に弾く練習場面ですが、ただ合わせるだけだと、たとえば、その演奏のタクトが不正確だったりすると、合わせることで変な癖がついてしまいます。演奏はこう弾ければ良いではなく、どう聞こえているかが大事です。トップが棒を振り、演奏を確認し、それで課題の部分ができるようにする方が良いのです。こうすることで、トップはメンバーの出来具合もチェックできますから、席順や乗り番なともテストなしで決められます。

また、全体練習で指揮は顧問の先生なのか、1stバイオリンが乱れたら、コンマスにきちんとし練習しろと言うだけで、コンマスは謝り、はいと言う。わっ、これは軍隊か、と思ってしまいました。実は、メンバーのミスがあっても、そのメンバーが悪いとは言えません。練習でずれたとき、合わない原因探しはかなり難しいのが普通ですし、意見が全く逆になることもあるのです。プロではないので、どんな理由があっても、ミスをするメンバーは悪人、のような風潮を作ってはいけません。合わない時はもう一度やり直し、どうしても合わない時は、次回に持ち越しでいいのです。

一番疑問に思ったのは、演奏の上手下手を競い合わせることです。演奏とは多次元のものなので、順位をつけることは原理的にできません。若手演奏家への道を助けるためのコンペティションの真似をしてはなりません。

私の経験から言えば、だいたいそのパートの演奏を間違いなく良くできる方法があるので、その方法を一つご紹介します。市民オケなどでもやったら随分良くなるでしょう。たとえば、ここはもっと歌ってほしい、という時、どんな風に歌うかを一人一人順に演奏してお互いに聞き合うのです。もし、一人一人が無理ならば、逆に一人ずつ聞く側に回って、パートの演奏を聴きます。他の人の演奏を聴くことはとても勉強になることです。一人ずつならば、上手な人はちろんですが、実は下手な人も聞くべきところがあったりします。それが新しい発見になり、各自の演奏が良くなるのです。しかもお互いの演奏を聴いているので、パートとして合わせやすくなります。また、パートの音を聞くことで、どこに問題があるか、あるいは自分と異なる所などをしっかり自覚できます。繰り返しますが、自分たちの演奏を聞くことはとても勉強になります。
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