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市民オケを聴いて [偉そうな一言]

市民オケは今はあちこちにある感じですが、その中でも演奏会が満席になるオケがります。団員の友人関係だけでは満席になりませんから、団とは全く関係ない人たちが毎回聞きにきてくれるのです。もしろん、中には数千円のチケット代を取るところもあり、ほぼ団員のノルマとはいえ、そういうところでは満員は難しいでしょう。

今回、友人が行けないというので、代わりに私が行きました。市民オケとしては決して下手ではないのですが、音楽がどうもきちんと流れてこない演奏で、聞いていてイライラするのです。他にもイライラする要因があり、最初から最後まであまり楽しめませんでした。しかし、団員達は満足しているようで、聞きにきた人の多くも楽しめたようです。

満席にする市民オケとの違いを考えてみしまいました。市民オケはプロが振っていて、トレーナーもプロだったりしますが、プロも、もっといい演奏ができるはずと考えてやっている方と、こんなもんで十分だろうと初めからレベルの限界を決めている方がいるように思います。今回聞いたオケは、限界を決めている方かなと思いました。音楽が流れてこないのは、ちょくちょくテンポが微妙に変わるのですが、それ自体はよくあることですが、今回のそれは不自然だからだなのでした。つまり、ここはいいやと切り捨てている部分のところが頻繁にあったのです。聞かせどころだけ頑張っているので、オケメンバーは楽しく大喜びでやっているようです。

市民オケは練習期間が長いですが、その中で修正できる部分は限られており、アマオケとはいえ、言われたことしかやらないと、自分達は満足でも毎回同じような演奏で、退屈になりやすいです。中には、それでも満足してしまうメンバーもいたりするでしょう。指導者だけでなく、オケメンバーも自分達の限界を勝手に決めて、それで満足しhてしまうと、今度は指揮者がもう少しいい演奏ができると期待していてもまったくそうはならず、退屈な演奏になります。まずは指揮者以前に、毎回もう少しいい演奏をしようという姿勢が大切です。

市民オケの演奏会に、ぽっと来る人達の中にはクラシックが好きで、いわゆる耳の肥えた人々がいます。そういう人達には、アマチュアがテクニックが劣ることは前提として当たり前のことです。それでいて、いい演奏とそうでない演奏をきちんと区別します。満席にする市民オケにはそういう理由で、満席になっているのです。アマチュア特有の欠点というのがあり、演奏する側はそういうことをきちんと修正する姿勢でいる方がいいに決まっていますが、それができていなくても、アマチュア特有の欠点があっても、いい演奏はできるのです。

私は以前、友人がいる室内合奏団を毎回聞きに行ってました。友人は退団したので今は行っていませんんが、そこは指導者のプロの方が大変厳しいという話で、しかし、メンバーの音はひどいもので、テクニックレベルはかなり低く、やばいという演奏をするのでした。それでも指導者のやりたい音楽はしっかり伝わってきて、今度はもっといい演奏をしてくれるかも、と思わせるところがあり、結局、友人がいるからという理由を越えてまた聴きに行くのでした。

アマチュアなんだから下手でいい、というのは、それでも良い演奏を目指す人が言うべきことで、下手だからと退屈な演奏で満足していい理由にはなりません。テクニックが下手でもいい演奏ができるからこそ、いわゆる耳の超えた人も聞きに来るのです。そして無料であっても、交通費と時間を使うということに敬意を払い、きちんと楽しかったと人々に感じてもらう演奏を目指すことは、とても大切な姿勢であると思います。演奏をする自分に酔っていても、あるべき姿勢で、やるべきことをきちんとやっていれば、本当に音楽の持つ多くの宝、価値と見つけ、そうではない姿勢でやっている人達が本当に現実として損をしている、ということにも気づくと思います。楽しいことには、その反対の、毎回の練習を工夫してやるという困難があるものです。


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バイオリンの練習の方向性が間違っている [偉そうな一言]

ズーカーマンは、小さい頃から難しい曲を弾きすぎる、と言いました。ズーカーマンが言っても本人も当然小さい頃から難しい曲を弾いていたわけで、説得力がないように思えますが、逆に言えば、それがあるからこそ、難しい曲を小さい頃から弾く必要はないと言えるとも考えられます。若い演奏家を見て、本当に難しい曲を弾くので、さらにそれがそう言わせた直接のきっかけでもあるでしょう。

映画「シャイン」の中で、天才ピアニストの少年がラフマニノフを弾きたいと言いますが、先生はまだ早過ぎると言って弾かせません。そんなことがあるのか、と疑問を持ったり、やっぱりそういうものだ、と納得したりするかもしれません。

晩年のオイストラフが日本に来る、最後の来日だろう、一体何を弾くのだろうと想像を逞しくした人は多かったと思います。やはりチャイコフスキーか、それとももっと驚くような大曲か。ところが持ってきたのはモーツァルトの協奏曲でした。

モーツァルトは多くの子供が演奏します。しかし、歳を取ってから、あるいは長い演奏活動からでは、モーツァルトの演奏は全然違います。それが子供の頃とは全く異なる演奏になっていることは明らかでしょう。全ての曲が、そういうものを持っています。もちろん何事においても、若い時には気がつかないのに、歳をとり、経験を経ることで気がつくようになります。ラフマニノフも同様です。しかし、一般に、ラフマニノフというロマン派の曲は、それまでのバロックや古典派の曲を知っているかどうかで、感じ方はだいぶ違います。音楽の歴史は単に並んでいるものではなく、音楽そのものがいろいろな方向に発展しているのです。例えばいきなり多調音楽をやってもその面白さを知ることはできないでしょう。発達というものには順序があります。たとえば、バイオリン初級者の段階ではポジションを正確に取ることが大事ですが、それができたらポジションの制限はむしろ取り外した、拡張した弾き方も練習します。しかし、これを初級者に教えることは、完全に無駄なことになり、やらない方がいいのです。順序が大切です。

ズーカーマンの言葉の意図は、子供の時あるいは初級段階では、難しい曲を弾かずにもっと音楽性の鍛錬をすべきだという意味だと思います。テクニックに偏りすぎだとも言えます。フルーティスト吉田雅夫氏は、最近の学生はモーツァルトはつまらないと言うのだから驚いた、と言っていましたが、欧米からは日本はクラシック音楽後進国と思われていた時代、何十年も昔のこととはいえ、既にモーツァルトの素晴らしさを感じる学生が少なかったことを示しています。テクニックしか興味ないといつまで経ってもモーツァルトの音楽を知ることはできないでしょう。現代において、ズーカーマンは東洋人の若手演奏家がいる前で前述のことを言ったのですが、特に日本はテクニック重視の傾向が顕著になってきていると思います。

プロでもテクニックが衰えても演奏している演奏家がいます。概ね、日本では評価は悪いです。プロは厳しい世界で、一度でもひどい演奏をすると評価が一気に下がります。そして、商売でもある演奏会はなかなか大変になるでしょう。しかし、これは逆も言えて、衰えたテクニックで評判が芳しくない演奏家が、一度でも本当に素晴らしい演奏をすると、それ以後それを聞いた人々はファンになってしまうのです。テクニックの衰えたプロの演奏家にはそういうファンが付いています。

特にクラシック音楽にはテクニックは必要ですが、最初から音楽を演奏するということをやらなければ、いつまでたってもテクニックだけの退屈な演奏になります。しかもそれは、子供の時に弾いた素晴らしいモーツァルト演奏より酷く退屈になります。昔と同じように演奏しようとし、そうではない、音楽を感じて弾いていた子供の頃の演奏ができないのです。ピレシュが若いピアニストを指導していたとき、非常に細かいテクニックを教えるのですが、それとは全く異なり、いわば抽象的な指導、つまりは音楽的なことについてもしっかり指導していました。きちんと両方を指導していた、という見方もできますが、むしろ大事なのは、テクニックも音楽という観点からの指導であり、目の前の音楽についてのすべて、細かいテクニックから大きな視点の捉え方などのすべてが音楽を演奏するという指導していたのです。

アニメでもテクニックだけの練習というものが扱われ、このテクニック傾向がますます広まる方向にあるように思います。しかし、大事なことは最初の段階からきちんと教えなければなりませんし、その方向で練習しなければなりません。指が正確に動くテクニックの練習であっても、それは何のためか、どういう演奏をしたいからかをきちんと自覚するようにしなければなりません。だからいわば上手になるためにテクニックを練習しているは、間違った方向です。そうではなく、この音楽を演奏するために必要だから練習するのです。最初から最後までずっと音楽をやるということ、そのために音楽を感じ、音楽の勉強をし、音楽から離れないことが大事です。音楽性という、何か難しい抽象的なことではなく、耳で聞く音楽というものを、演奏しなければなりません。
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楽譜通り弾くことはできない [偉そうな一言]

最近またTVで辻井君のCMが流れていたので、一言。
楽譜通り弾くのはつまらない、という言葉ですが、最初に聞いた時に、楽譜通りに弾くってどういう意味だ、と考えてしまいました。もともとバイオリンは一音を弾くだけでもいろんな弾き方があります。だからどういう音で弾くかはかなり選択肢が多いのです。ピアノとは違うのですが、問題はここではないでしょう。音楽は本来頭の中にあります。作曲家がそうですし、演奏者もそうです。それを演奏者は現実の音にし、作曲家はそれを楽譜として書き残します。音楽は楽譜の向こう側にあります。楽譜そのものは音楽と関係していますが、それが音楽ではありません。楽譜から音楽を頭の中で組み立てます。そしてできた音楽は楽譜とは異なる部分が多く、楽譜通りに弾くなんてことは不可能です。これについてはピアノという楽器がそういうことが起きやすいということがあるかもしれません。小説通りの映像はつまらない、ということがまったく意味不明であるのと同じだと言えます。

ピアニストの上手下手を判断するのはバイオリンより簡単です。つまり、ピアノは叩けば初心者でもそこそこ音が出ますが、それで音を並べると、本当に退屈でつまらないものになります。ところがピアニストと呼べる人が演奏するときちんと音楽が聞こえてきて、音が聞こえてくるという感覚ではありません。それはピアノが、いわゆる上手か下手かではなく、音楽を演奏しているかどうかの違いです。ピアノに比べると、バイオリンは音一つでもいろいろな音を出せるので、その音で誤魔化しやすいと言えます。もちろん、ピアノも和音など聞けば大体はわかりますが、バイオリンは音一つで練習量もわかったりするので、努力していることが見えてきて、そのために音楽を聞く前に上手と思ってしまうのです。

最近、あれっと思う、残念なことは、テクニックだけで上手いと言われることが増えていることです。テクニックが何かはかなりグレーな部分が多く、意見がいろいろ分かれるところですが、一番単純に言えば、細かい音を正確に弾ける、綺麗な音を出せる、つまりは、バイオリンで言えば、右手と左手の器用さがテクニックです。個人的にはさらにもっと専門的なテクニックというものがあり、パターン化できる演奏法は全てAIなどで置き換えることができるので、テクニックと言えるのです。ではテクニック以外は何があるのかというと、それが音楽の演奏と言えるところです。コンピュータが楽譜を自動演奏するのと人間の演奏の今般的な違いです。テクニックがあれば十分だとするなら、世界で一番上手なのはコンピュータ、つまりAIとなってしまいます。

テクニックがあることで満足するならば、コンピュータによる自動演奏とどこが違うかをよく考える必要があります。たとえば、私はここでルバートをしたりしてテンポを微妙に変える、しかしいつも同じようにそれを演奏したいなら、それはパターン化でき、データ化してコンピュータに真似をすることができます。それもテクニックなのです。人の演奏はその時によって必ず変わり、さらに共演者も毎回異なるので、それで猿翁全体も毎回変わります。どうして変わるのか、それは色々な条件が作用しています。そのようにして変わることは決して悪いことではありません。音楽を演奏するならば、因果関係に従って変化するものです。ここに音楽の秘密があります。頭の中のイメージは同じものなのですが、実際の演奏は微妙に変化し、ゆらぐのです。この因果関係に基づく必然のゆらぎがあるかどうかが一つの価値になります。それは、心が演奏を作るからです。楽譜やテクニックは必要ですが、決して音楽の本質ではありません。

富士山を見ると同じ時は一度もありません。毎回毎回異なります。しかし、それが、見る人に美しさとなるのです。アフリカのあるところに住む少女は特別な場所というものを持っていました。そこへ行くと美しい夕日が見られます。毎日見てもそれは美しいのです。音楽も同じで演奏するときには、たとえ毎回同じ曲、同じメンバーであってもその時のみの一回だけの演奏になります。繰り返し聞く人も、初めて聞く人も、その音楽の美しさを受け取ることでしょう。
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上手いからこそ問題がある [偉そうな一言]

音楽をテーマにしたアニメの話書きましたが、日本のアニメには、見ない方が良いものもありますが、本当に良いアニメというものがあります。日本の文化なのです。最近では、ヴィンランド・サガや王様ランキングは素晴らしいです。個人的には、単に好奇心を煽るだけのアニメは、まったく見ません。飽きます。

さて、本題はここからです。音楽関係のアニメだけでなく、音楽番組なども見て、日本の音楽は危機的状況にある、という感じがします。上手であれば良い、という風潮があるからです。それもポップス、クラシックとも同じで、ミュージカルや演歌にも影響はあるでしょう。大きな原因はテレビです。テレビが音楽を破壊することを毎日やっているからです。

上手い歌手、上手い演奏、という言葉が意味するのはテクニックです。昔はテクニック以外の部分の評価が主でしたが、テクニックばかり取り上げられるので、上手いという言葉の意味が変わってきてしまいました。このことが上手い以外に音楽には何があるかをh知らない人々が増えたことを意味しています。すでに日本の音楽は堕落してしまった、と言えるでしょう。手遅れでないことを祈るしかありません。

音楽はいたるところにあります、いや、ありました。お母さんが歌う子守唄で子供は音楽を受け取ります。単純な言葉では音楽を聴いています、と言います。今、テレビやインターネットで音楽を聞けますし、街を歩いたり、電車を利用するだけでも音楽を聴ける、と言えます。しかし、これは音楽を知る最初のきっかけとしては全く好ましくありません。親が子供のために歌うこと、そこに音楽はしっかりあり、子供はそこから音楽をきちんと受け取ります。極端に言えば、テレビから流れてくる音楽は、子供には音楽には聞こえないのです。

学校の音楽の時間に歌を歌います。音楽のこの時間はとても楽しく、ここに音楽があります。カラオケで歌う、ここにも音楽はありますが、子供はそこに違いがあるのを感じます。もちろん、クラシック音楽をやってきた人の何割かは、カラオケは嫌いだったりするものです。なぜなら、伴奏者と歌手は相互に聴き合って演奏するものです。一方通行は音楽がないわけではありませんが、欠けたものがある音楽です。

音楽にはテクニックは必要ないということがわかります。ただし、人に聞かせるとなると、やはり聞く人が楽しめる程度のテクニックは必要です。テクニックは演奏する条件であって、それが音楽そのものなのではありません。ただし、もちろんテクニックがあればあるほど、音楽の持つ全ての価値を表現することが可能になります。だから、クラシックでもポップスでも練習するのです。だから、表現になっていなければ音楽の価値はかなり小さいものです。つまり、コンピュータが再生すれば、音楽になるわけではありません。音楽は人間が行う行為であり、どんな機械を使っても、そこに音楽を伝える人間がいなければなりません。

バイオリンはとても難しい楽器です。だから、それなりに弾けるようになるには、努力しなければなりません。しかし、弾けるようになってもそれはテクニックだけであり、実際に音楽を奏でなければ、そこには音楽はないのです。同じことを繰り返しますが、コンピュータがパガニーニを再生したとしてもそれは音楽ではありません。この違いを知る人間だけが音楽を奏出るべきとまでは言いませんが、これには違いがある、ということは、単なる知識としても知っているべきです。

例の「青のオーケストラ」の練習風景には音楽がありません。高校生オケであっても、人前で演奏するなら、音楽を奏でる練習をしなければなりません。たとえば、ここは焦った感じがするから、そうではなく、活気のある感じにしましょう、と言って、繰り返し練習をすればいいのです。ところで、オケではパートの音を聞いて弾く、というのは、パートの音に溶け込むように弾くということが大事です。これを知る知らないで響きが全く異なります。知らない人の方が多いです。

日本人のクラシック演奏家は本当に上手な方が多いです。しかし、日本では上手さばかり取り上げられるので、一つは現状で満足し、もっと上があるのにそこも目指さない、つまり、そのときから徐々に下手になってしまうのです。また、自分の上手さを示す演奏ばかりやる。聞こえてくるのは音楽ではなく、上手だという理性的判断しかありません。そうなるとまた聴きたいとは思いません。上手さは一度聞けばわかるからです。

現代は、特に日本では、音楽とは何か、それを追求するのが真の音楽家と言えるでしょう。
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歌が上手い? [偉そうな一言]

先日、テレビで歌唱力のある歌手というのを、同じ歌手などが推薦する番組がありましたが、驚きました。こういう番組があるなんて、J-Pop大丈夫か、と思いました。怒鳴ることばかりのJ-Popには、全く興味がない人間の感想です。

まず、夜の女王のアリアを繰り返して下品にしたものを頻繁に使っていて、なんというひどい効果、呆れました(-3点)。制作側にはこれが不快感を与えることがわからないのでしょう。
最後の方で、山下達郎さんや忌野清志郎さんが歌唱力があるとか推薦されて、呆れぶりのとどめでした(-2)。

誰が上手い歌手は誰かを、歌手そのものに聞くこと自体、非常に馬鹿げたことで、歌手を馬鹿にしています(-1)。こういう番組によって、歌のことをあまりわからない人は、歌を聴くときに、歌のうまさに注目してしまうことでしょう(-2)。しかし、山下達郎さんや忌野清志郎さんの歌を、どんだけうまいかなんて聞くのは、とんでもない失礼な話です。歌そのものを聞いてもらうために歌っているだろうし、そう聞くべきなのに、どれだけ歌が上手いかなんてことに注意させるような内容の番組は、本当にその歌手とその歌を馬鹿にしています。腹立たしことこの上なしです(-1)。

まだまだあります。プロは上手に歌いますが、毎回同じように歌えるわけではありません。だから、ものすごくいい時もあれば、今日はイマイチだったということは普通です。つまり、歌が上手いかどうか自体、意味がありません。繰り返しますが、歌手は歌が上手いのは当たり前なので、そこに注意すること自体、歌が聞こえていない人の話なのです。この時のコンサートは最高だった、というのならわかりますが(-1)。

ということで、ゴールデンタイムの関ジャムとかいう番組を10点満点から減点していき、0点となりました。

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これはクラシック音楽のアニメなのか [偉そうな一言]

「青のオーケストラ」というアニメが全然面白くありません。高校のオーケストラクラブ活動で、クラシック音楽がテーマかと思いましたが、いじめというテーマを暗く扱ったりしてます。それに音楽に関しても、あれというシーンばかりです。

violinのパート練習はパート全員でただ一緒に弾く練習場面ですが、ただ合わせるだけだと、たとえば、その演奏のタクトが不正確だったりすると、合わせることで変な癖がついてしまいます。演奏はこう弾ければ良いではなく、どう聞こえているかが大事です。トップが棒を振り、演奏を確認し、それで課題の部分ができるようにする方が良いのです。こうすることで、トップはメンバーの出来具合もチェックできますから、席順や乗り番なともテストなしで決められます。

また、全体練習で指揮は顧問の先生なのか、1stバイオリンが乱れたら、コンマスにきちんとし練習しろと言うだけで、コンマスは謝り、はいと言う。わっ、これは軍隊か、と思ってしまいました。実は、メンバーのミスがあっても、そのメンバーが悪いとは言えません。練習でずれたとき、合わない原因探しはかなり難しいのが普通ですし、意見が全く逆になることもあるのです。プロではないので、どんな理由があっても、ミスをするメンバーは悪人、のような風潮を作ってはいけません。合わない時はもう一度やり直し、どうしても合わない時は、次回に持ち越しでいいのです。

一番疑問に思ったのは、演奏の上手下手を競い合わせることです。演奏とは多次元のものなので、順位をつけることは原理的にできません。若手演奏家への道を助けるためのコンペティションの真似をしてはなりません。

私の経験から言えば、だいたいそのパートの演奏を間違いなく良くできる方法があるので、その方法を一つご紹介します。市民オケなどでもやったら随分良くなるでしょう。たとえば、ここはもっと歌ってほしい、という時、どんな風に歌うかを一人一人順に演奏してお互いに聞き合うのです。もし、一人一人が無理ならば、逆に一人ずつ聞く側に回って、パートの演奏を聴きます。他の人の演奏を聴くことはとても勉強になることです。一人ずつならば、上手な人はちろんですが、実は下手な人も聞くべきところがあったりします。それが新しい発見になり、各自の演奏が良くなるのです。しかもお互いの演奏を聴いているので、パートとして合わせやすくなります。また、パートの音を聞くことで、どこに問題があるか、あるいは自分と異なる所などをしっかり自覚できます。繰り返しますが、自分たちの演奏を聞くことはとても勉強になります。
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退屈な演奏とうるさい演奏 [偉そうな一言]

先日、ある演奏を聴いたら、音楽が止まりそう、しかしまた少し流れて、また止まりそうになる、そういう演奏でした。聞いている方は退屈な演奏だなと感じます。それ以上聞いても何も期待するようなことはなく、途中で聞くのをやめた方が時間の無駄にならないと思いました。これは弾いている本人達にはまったくわからないのです。気持ちよく、弾いているからです。これとは反対の演奏もあります。落ちつきがなく、先へ先へ行こうとする演奏で、聞いているとうるさいだけなのです。何がしたいのかよくわからない演奏です。これもこれ以上聞いてもむしろいらいらするでしょう。その主な原因は練習不足です。楽譜にかじりついて間違えないようにしているだけなのです。

退屈なタイプはいわゆる上手な人に見られ、落ち着きないうるさいタイプは下手な人に見られるものです。この二つのタイプの問題は、同じで、それは不正確なタクトにあります。タクトがきちんと刻めていないのです。そのために止まるように感じられたり、落ち着きなく、うるさい感じになります。良い演奏は全く反対で、テンポが揺れているのにどんどん音楽がどんどん流れてきたり、もう一方はノリの良い演奏で、ぐんぐん引き込まれ、目がさめるような演奏です。タクトをどう取るかで、これが決まります。ここは落ち着かせる、ここはどんどん煽っていく、などのパターンで考えようとすると、その違いはわかりません。タクトというものが持つ特徴を知らずに、外見的に、理性的に判断しても理解できないでしょう。

特にこのタクトの不正確さは日本人によく見られる傾向ではないかと思います。というのは、海外で勉強してきた人にはあまり見られないのです。海外の人からすると、日本人のタクトの薄い演奏は新鮮な感じがしたりして、良い感じに受け取られる場合もあるようですが。タクトの重要性を無視するのは日本人特有の欠点であると思います。おそらく日本語にアクセントがないからでしょう。英語の勉強を8年間勉強しても、アクセントを理解せず、知らないのです。同じようにタクトは大事であることを知っている人も少ないと思います。音楽には、アクト、メロディ、リズムの三要素がありますが、同じように言語にも、アクセント、イントネーション、リズムがあります。対応しているのです。
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スポーツ観戦から その2 [偉そうな一言]

中国と日本の女子の卓球を見ました。日本は決して弱くないのですが、負けてしまいました。卓球は他のスポーツ同様、本当に巧みなテクニックが必要で、その点日本の若手は素晴らしいものがあります。しかし勝てなかった中国戦を見ていて、文化の違いによる方向性があるのではないかと感じました。

日本の剣術は、侍の試合のように、燕返しなどの秘術、秘剣により一発で勝敗が決まります。もちろん居合抜きなどもそれを象徴しているものでしょう。中国のカンフーは、一撃必殺よりも組手の流れから徐々に優勢となり、最後にとどめを刺す感じです。
卓球も、日本はこの技のテクニックをあげ、打ち合いも一つの勝ちパターンを持っていたりします。必殺技で点を取る方向です。いくつかある必殺技をいかに出すかがポイントになります。中国も各選手得意のサービスやショットがあったりしますが、どちらかというと流れの中から優位に持っていく試合運びです。つまり、どういう流れで戦うかの方に注意しているようで、予想通りの展開なら怖いものなしです。相手の得意技で点を取られても、どういうパータンで出すかがわかれば試合はコントロールできます。ですから、点数は近くてもゲームを支配している中国選手には焦りはないようです。

ここから音楽の話ですが、日本人演奏家は個々の部分をどういう風に演奏するか、に非常にこだわり、たくみに演奏する人が多いです。ところが、外国人は形式や前後関係によく注意していますし、アンサンブルなどで行われる対話などは、最初から最後までずっとそれをやり続けたりします。極端に言えば、個々の要素に注意するのが日本人で、要素の関係性に注意するのが外国人という感じです。たとえばタクトです。日本人は最初に何拍子か、に注意するだけですが、外国人は常にそのタクトを感じていて、つまり何拍子かを常に保っているのです。

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スポーツ観戦から [偉そうな一言]

女子バレーボール見ていて、昔の日本ー韓国戦のことを思い出しました。当時は韓国に日本は勝てませんでしたが、テレビで見ているとそれは当然だと思えるところがありました。韓国はピンチを見事にチャンスに変えるのです。レシーブがうまくいかなかった時、トスがむずかしくなり、日本だと安全策をとりますが、韓国はそういうときに、例えばクイックを使うのです。日本はまさかという感じで点を取られます。日本がやったと思った時に韓国は逆に点を取っているのでした。ピンチの時こそ、ありえないという意表をつくチャンスであり、それを失敗してもいい、ということではなく、どちらかというと、むしろピンチをチャンスに変える練習をして、積極的に戦略に取り込んでいる、と思えるほどでした。
今回のバレーボールを見ていても同じことを感じました。ピンチになると日本は安全なプレーをします。だから相手は何をしてくるかわかるので、万全に迎え撃つことができ、ブロックで点を取られます。やはり、ピンチの時にこそ、安全策を取るだけでなく、無理をしてチャンスに変えることができるのではないかと思いました。

サッカーもそうですが、テレビは客観的に全体が見えるので、結構いろいろ気がつきますが、選手側からすると、それをわかっていてやっているということになるのでしょう。余計なお世話になるのですが、しかし、見ている側は、やはり面白い試合というのは、見ているグァの予想を覆すことをしたり、この先どうなるかわからない、ということがわくわくさせます。見なくても大体内容は想像つくよ、という試合はやはりつまらないものです。

演奏でも同じようなことがあります。最初の5分間聞いただけで、あとどんな演奏になるかわかってしまうというもの。もちろん期待できる演奏ではないのです。それは下手なわけではなく、上手い場合ほどわかりやすかったりします。下手な人はどんな演奏になるか予想できないところがあるのに、上手いとブレがないからそうなるのです。そして、それが期待感にならず、わかりきったものになってしまうのです。演奏する側がパターン思考で単に楽譜通りやっているだけ、という場合もありますし、自分のうまさを見せつけるだけの演奏もそうです。こういうことは理性的判断ができるので、それしかないとあとは予想できるものになります。音楽は理性ではなく、広い意味の感情に訴えるものでなくなてはなりません。
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特別な演奏 [偉そうな一言]

音楽は人により、その受け取り方は様々です。演奏家がこういう表現をしようと思っていても、それが聞き手に伝わるかどうかは完全に聞き手の自由です。肥えた耳の人が素晴らしい演奏だと思っても、なんか眠くなったという人もいるでしょうし、耳の肥えた人が退屈な演奏だと思っても、感動したと言う人もいます。良い演奏というのは、その判断は理性によるので、本来音楽が伝える部分を理性的に処理する必要があり、同じような感銘を受けたとしても、どういう理性的判断をするかは全く個人によって異なり、さらにそれを言葉にするならば全く違う説明になるものですが、それとは別に、音楽によって感じるもの自体が人により異なるものです。ここでは理性的判断では無く、感情領域において伝わってくるものの話をします。

先日、日本人ピアニストの録音を聞きました。最初のところでリズムがかなり不正確でした。これは日本人にはよくあるタクトの不正確さが主な原因で、リズムがはまっていないのです。それでもあまり気にせず、ながらで聞くことにしたのですが、どんどん音楽が心の中に入り込んできて、いわゆる私の心の琴線に触れたのでした。そこでながら視聴をやめ、聞くことに集中しました。このように、否応無く心に直接届いてしまう、これが私にとっての特別な演奏です。

フロイトは心には意識とは別のもっと広大な領域の無意識、潜在意識の領域があると言いましたが、この潜在意識の領域も分かれており、理性に対応する部分だけでなく、感情に対応する部分もあります。いわばこれは心の琴線という言葉が一番近いと思います。音楽は本当に直接潜在意識に到達することがあり、これは音楽に限りませんが、それにヨット心が大きく動かされることがあります。

世の中には素晴らしい演奏はたくさんあり、そういう演奏を繰り返すことができる人が素晴らしい演奏家と呼ばれるのですが、そういう素晴らしい演奏が全て特別な演奏というわけではありません。しかし、一度このような特別な演奏を体験してしまうと、その演奏家に対する注目度は全く異なるものとなります。そして、前述のようにタクトが不正確、リズムがはまっていないなどの明らかな欠点があっても、それはなんらその特別な演奏には関係ありません。タクトの巧みさやリズムのハマり方は大事ですが、それよりもこの特別さこそが、人間にとっては大事な体験になるものと言えるのです。そして、誰もがそういうものを一度は体験しているでしょう。また、演奏家は有名でなくても良いし、そんなに上手でなくても、そういう特別な演奏はあるのです。

午前中に何気に弾いているピアニスト、それに合わせていつものように体を動かしていた友人達の一人が、急に後ろの方に行き、座り込みました。どうしたのかなとみんな振り返ると、涙を流し、それを抑えきれなくなったのでした。そんなにクラシック音楽が好きなわけでもないのに、自分でもなぜこうなったのか、わらなかったのでした。

モーツァルトが演奏会を開くと大盛況は間違いなかったと言われています。パガニーニも人々を熱狂させました。多くの人はパガニーニの素晴らしさはそのテクニックだと思っていると思いますが、そうではないでしょう。テクニックが素晴らしいのではなく、演奏そのものが特別なものだったのです。モーツァルトのその特別な演奏を聴いたら、もう虜になってしまい、聞かずにはいられないのです。

しかし、人々に特別な演奏と感じてもらえることを目的に演奏してはなりません。なぜならそれは聞く人により異なるので、目的になりえません。それこそ音楽以外のものを持ち込んでも、聞き手は大満足したりするものです。演奏家が目的とするのは、音楽的価値を表現することだけです。モーツァルトやパガニーニの演奏は、もはや誰も知りませんが、そういう演奏は存在するものなのです。


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