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演奏家は、なぜ一番を目指してはいけないのか [偉そうな一言]

日本人はかつてのアメリカ人のように、No.1つまり一番が好きなように思います。しかし、音楽において一番を目指すことはよくありません。

音楽は人々の感情を動かします。数学が理性に訴えるものであるのに対し、音楽は感情に対して訴えます、一番というのは理性的な判断です。一番だけでなく、上手ということも理性的判断です。ですから、こういう理性的な判断に訴えることで、音楽は音楽ではなくなってしまいます。もともとまったく異なる価値のものを混同してしまっているのです。音楽の感情に働きかける面を、演奏では表現と言います。どういう表現をするか、それが演奏では大事なのです。

感動させる演奏をしたい、と言う人もいます。感動という大きな心の動きを目標にしていますが、実はこれも目標を間違えています。感情というのは理性と違い、自分自身でさえどう感じるかをコントロールすることはできず、そして人によって異なるものです。素晴らしい演奏を聴いても退屈する人はいます。また、ひどい演奏なのに涙を流す人もいます。感情は個人によって異なる自由なものです。ですから、原理的に感動というものを目標にすることはできません。多くの人を感動させる演奏、表現というものはありますが、その感動という結果自体を目標にすることはもちろん、そういう演奏自体を目標にすることもできません。なぜなら、感動するかどうかは本当に予測できません。全く同じ演奏をしても感情反応は異なるのです。それよりも、前に述べたどういう表現をするか、というものを目標にするべきです。

そして、音楽から受け取るものは人により異なる、ということは、実は音楽そのものの深さと素晴らしさを意味します。例えば、今から2000年ほど前に、イマヌエルは人々に愛を説きました。愛とは何かと問うと、様々な答えが返ってきます。それは、まだ愛とは何かが理解されていないからでしょう。そして、愛を受け取れば、それは人によって様々に受け取られ、さまざまな感情が動くでしょう。愛を知っていればいるほど、深く、広い、どこまでも暖かいものを受け取るでしょう。音楽も似ています。単に美しいということだけでなく、そににはもっといろいろなものが感じられるのです。良い例はモーツァルトです。モーツァルトはクラシック音楽に馴染みのない人でもいわば楽しむことができ、そして、何十年も音楽と真剣に関わってきている人はも、いわば深いというか、そういうものを受け取ります。そうやって関わるを続ける人は常にモーツァルトに新しい発見をします。愛とは何かを、少しずつ理解を深めていくのに例えられるかもしれません。

演奏においては、常にその音楽の持つ価値を求めることが大切です。若い時には聞こえないものがやがて聞こえるようになります。それは単に音や響きの美しさや音楽の流れの高揚感だけではありません。そこにはもっと神秘的な価値あるものがあります。まだ聞こえてこないものを聞こえるまで、演奏家は研究をすることになります。
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楽譜通り弾くが存在しないバイオリン演奏 [偉そうな一言]

最近の辻井氏は、以前は時間軸に沿って音が流れるだけの演奏だったのが、最近は空間的な響きが聞こえるようになって、今後がとても楽しみです。もちろん、クラシックファンとしての一個人の感想です。その辻井氏が最近のTVのCMで、楽譜通り弾くのはつまらない、と言っていることに、えっ、と疑問を感じるバイオリン弾きは結構多いのではないでしょうか。バイオリン演奏に楽譜通りは存在しないのです。
バイオリンでは、楽譜から音のイメージを作ります。楽譜を見て弾きますが、頭の中は楽譜ではなく音、このイメージを作るのはそう簡単なことではないです。当然、イメージが楽譜通りなんていう事態はありえないことなのです。
しかし、楽譜を出して、最初の音弾いてみて、次に二番目の音、それを続けて弾いてみな、なんてそれらしいこと言う人がいると思います。例えば最初の音のイメージにはまず音程があります。ト長調の曲で、G線の開放弦の音だったら、その音はオーケストラとでもピアノとでもピッチが合いません。違った音を出したらそれは当然楽譜通りではない。いや、ピアノは平均律で楽譜通りなんだから、バイオリンは音のピッチがずれていてもそれいでいいんだよ、となるのでしょうか。しかし、バイオリニストはどうするか考え込んでしまいます。調弦を変えるべきか、あるいはここは開放弦を使わずに回避するか。
次に、ダウンボウで弾くかアップボウにするか、弓の真ん中でいいでいいか、駒から遠くにしたほうがいいか、次の音を考えたら、音符いっぱいの長さでいいか、途中で弓を離すか、スタッカートならさらにどういうふうな弓使いをするか、全て楽譜にないことを考える必要があります。選択肢が多すぎて楽譜通りというものがないのです。どれで弾いても楽譜どおりと言っていいい、などというのは単なる屁理屈。音のイメージを無視してどれでもいいなんて、演奏行為を尊重せず、もはや演奏ではないでしょう。

実は、ここに現代の音楽の大きな問題があるように思います。上記のような演奏行為をしない音楽があります。リズムボックスというものです。人間は必要ありません。しかし、それを使って演奏します。妥協でもありません。それが演奏なのです。むかしのリズムセクションの演奏者は言いました。コンピュータが作るリズムになんて乗れるわけないだろう。もはやそれはどうでもいいことのようです。メトロノームに毛の生えたものがリズムボックス、それをそのまま演奏に使う。演奏は堕落してしまった!

本来は、ピアノにおいても、楽譜通りの演奏なんてものは、存在しないのではないでしょうか。

追記
アップした後で、ピアノの楽譜例を一つを思い出しました。バイオリンと違って、ピアノでは長音は減衰するのみですが、その長音にクレッシェンドが付いている場合があります。これを楽譜通り演奏する、ことはどうやってもできません。
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COVID-19:フェイクという真実あるいは真実というフェイク [社会問題]

感染拡大の一番最初の2020年の春に、COVID-19について、別のところで次のようなことを書きました。
感染者が一人いたとして、1日に一人に感染させるとすると、感染者が潜伏期間として14日間経ってから発症した時点で、初めて感染者と発覚しますが、その時には既に13人に感染させることになります。集団に一人いればクラスターになりますが、これだけのことからも、コロナはクラスター対策だけでは全く不十分です。さらに、一人目から感染させられた人もまたすぐに感染させるようになり、さらにその感染させられた人も、となるので、14日目に感染者1名と見つかった時には、既に8192人の感染者が市中にいます。
これを書いたら、そんなこと書いて不安を煽るな、とコメントされましたが、まさに今はそんな感じかもしれません。

以下、データに基づく検証です。

ファイザーのデータによると、ワクチン接種者の感染者は77人、そのうち死亡者は15人。プラセボ群の感染者は850人、そのうちの死亡者は14人です。感染者数を比べればワクチン接種者の方が少ない、というかもしれませんが、死亡原因を特定しないと、ワクチン接種者の方がわずかに死亡率が高いです。この中で、COVID-19が死因であると判断されたのは、ワクチン接種者では1人、プラセボ群は2人です。この数字だけ見ても、感染して死亡する率はワクチン接種者の方が高いです。ワクチン接種で重症化が減るというのは嘘です。
ワクチンは感染しなくなる、という数字は確かですが、最終的な数字を見る限り、死因を特定しなければ、死亡者数は感染してしまうプラセボ群とほとんど変わりません。そして、ワクチン接種者が感染した場合は死亡率や重症化率が高くなります。つまり、感染するリスクが低い場合は、ワクチンを打たない方が良い、と言えます。

イスラエルの研究報告によると、ワクチンの2回目接種後、心筋症の発生率が高くなり、非接種者の1.6倍、男性では4.1倍になります。

イギリスでは、ワクチン接種が進む前の2021年1月にロックダウンをして、感染者が急激に減りました。その後、接種が進みましたが、2回目接種が終わってから2ヶ月もするとまた急激に増えました。もし、ワクチンが効果があったとしても2ヶ月間だけでした。

日本では感染者数が急激に減りました。専門家の誰もがその原因がわかっていません。しかし、話は単純です。五輪で感染者数が増えましたが、その後、人同士の接触が減ったからです。そうして外出規制を緩め、外出が増えたので、また感染者は増え始めました。感染者を増やすことを、常に日本政府がやっています。共存とは、COVID-19と仲良くすることです。


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