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スポーツ観戦から その2 [偉そうな一言]

中国と日本の女子の卓球を見ました。日本は決して弱くないのですが、負けてしまいました。卓球は他のスポーツ同様、本当に巧みなテクニックが必要で、その点日本の若手は素晴らしいものがあります。しかし勝てなかった中国戦を見ていて、文化の違いによる方向性があるのではないかと感じました。

日本の剣術は、侍の試合のように、燕返しなどの秘術、秘剣により一発で勝敗が決まります。もちろん居合抜きなどもそれを象徴しているものでしょう。中国のカンフーは、一撃必殺よりも組手の流れから徐々に優勢となり、最後にとどめを刺す感じです。
卓球も、日本はこの技のテクニックをあげ、打ち合いも一つの勝ちパターンを持っていたりします。必殺技で点を取る方向です。いくつかある必殺技をいかに出すかがポイントになります。中国も各選手得意のサービスやショットがあったりしますが、どちらかというと流れの中から優位に持っていく試合運びです。つまり、どういう流れで戦うかの方に注意しているようで、予想通りの展開なら怖いものなしです。相手の得意技で点を取られても、どういうパータンで出すかがわかれば試合はコントロールできます。ですから、点数は近くてもゲームを支配している中国選手には焦りはないようです。

ここから音楽の話ですが、日本人演奏家は個々の部分をどういう風に演奏するか、に非常にこだわり、たくみに演奏する人が多いです。ところが、外国人は形式や前後関係によく注意していますし、アンサンブルなどで行われる対話などは、最初から最後までずっとそれをやり続けたりします。極端に言えば、個々の要素に注意するのが日本人で、要素の関係性に注意するのが外国人という感じです。たとえばタクトです。日本人は最初に何拍子か、に注意するだけですが、外国人は常にそのタクトを感じていて、つまり何拍子かを常に保っているのです。

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スポーツ観戦から [偉そうな一言]

女子バレーボール見ていて、昔の日本ー韓国戦のことを思い出しました。当時は韓国に日本は勝てませんでしたが、テレビで見ているとそれは当然だと思えるところがありました。韓国はピンチを見事にチャンスに変えるのです。レシーブがうまくいかなかった時、トスがむずかしくなり、日本だと安全策をとりますが、韓国はそういうときに、例えばクイックを使うのです。日本はまさかという感じで点を取られます。日本がやったと思った時に韓国は逆に点を取っているのでした。ピンチの時こそ、ありえないという意表をつくチャンスであり、それを失敗してもいい、ということではなく、どちらかというと、むしろピンチをチャンスに変える練習をして、積極的に戦略に取り込んでいる、と思えるほどでした。
今回のバレーボールを見ていても同じことを感じました。ピンチになると日本は安全なプレーをします。だから相手は何をしてくるかわかるので、万全に迎え撃つことができ、ブロックで点を取られます。やはり、ピンチの時にこそ、安全策を取るだけでなく、無理をしてチャンスに変えることができるのではないかと思いました。

サッカーもそうですが、テレビは客観的に全体が見えるので、結構いろいろ気がつきますが、選手側からすると、それをわかっていてやっているということになるのでしょう。余計なお世話になるのですが、しかし、見ている側は、やはり面白い試合というのは、見ているグァの予想を覆すことをしたり、この先どうなるかわからない、ということがわくわくさせます。見なくても大体内容は想像つくよ、という試合はやはりつまらないものです。

演奏でも同じようなことがあります。最初の5分間聞いただけで、あとどんな演奏になるかわかってしまうというもの。もちろん期待できる演奏ではないのです。それは下手なわけではなく、上手い場合ほどわかりやすかったりします。下手な人はどんな演奏になるか予想できないところがあるのに、上手いとブレがないからそうなるのです。そして、それが期待感にならず、わかりきったものになってしまうのです。演奏する側がパターン思考で単に楽譜通りやっているだけ、という場合もありますし、自分のうまさを見せつけるだけの演奏もそうです。こういうことは理性的判断ができるので、それしかないとあとは予想できるものになります。音楽は理性ではなく、広い意味の感情に訴えるものでなくなてはなりません。
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比べられないものを比べること [社会問題]

比べては、大小や強弱など判断するには、一つのものさし、つまり数字化が必要です。複素数でわかるように、数でさえ大小関係がわからない数があるのですから、比べることができないものというのは、世の中には普通にあります。一般には、これは質と量という言葉で説明できます。量は比べられるが質は比べられないものです。

しかしこの質を比べることは普通によく行われていますし、テレビなどを見ればわかるようにそれは増えています。昔の例ですが、一般人にペプシコーラとコカコーラのどちらが美味しいと思うか、というブラインドテストがありました。これはペプシコーラが行なった販売促進なのですが、実は多くの人がペプシの方が美味しいと判断するのです。実際に飲み比べると、確かにペプシの方が美味しく感じるのですが、ペプシのほうが若干甘いのです。それで飲み比べるとペプシを選ぶ人が多いのです。実際には、そこまで甘くないコカコーラの方が、飲んでいて飽きが来ない、他のお菓子などには相性がよい、ということがあります。

一般人でないプロによる比較もあります。やはり以前、日本人の寿司職人とスペインの寿司職人の腕比べをしたテレビ番組がありましhた。審査員は味のプロです。いい勝負でしたが、スペインの方が勝ちました。実は日本の方はきゅうりやエビの巻物が出たのですが、これは味が薄く、味の濃いものと比べると当然点数は低くなるのでした。味の濃いものがこういう比較では高得点になりやすいのは仕方ないといえます。調理したもの単品の味比べなどが行われたりするせいか、日本食はもともとご飯、味噌汁、漬物に焼き魚など、それぞれの味のバランスという点が特徴でしたが、最近はそれぞれが練られて一品として完成されてしまい、極端に言えば何を食べても出汁が利いていたりするようになってしまいました、食事全体の味のバランスがなくなってしまったのです。

音楽演奏でもこれは同じようにあります。当然演奏はもともと比べることができないものです。それを色々な面から採点し、順位を決めるのがコンペティションです。審査員であるベテラン演奏家にしかわからないテクニック的なところがあります。一方聴衆はそういうことはわからず、聞いて良かったと感じる人がいい演奏家だと思うわけですので、一般聴衆の評価と審査員の評価が異なる場合があります。演奏家が多少失敗してもいい演奏はありますし、大きな失敗はなかったが押しつけがましい遠そうで好きになれない、というのもあります。また、点数をつけるためには、やはりミスは減点になるのに対し、音楽的内容については質なので、客観的に点数をつけることはむずかしいのです。審査員により点数が全く異なることがあるのは、当然のことです。

このような比べられないものは比べるべきではない、とは思いません。比べられないものを比べる、それは人間が答えのない一つの問題に挑戦しているようです。そこにはやはり文化的価値というものがあり、とても面白いと思うのです。しかし、それは比べられないものを比べている、ということを、しっかりと前提として知っている必要があります。そうでないと、結果に対して必要以上にこだわることになり、価値をゆがめることになります。それはどちらかというと、この比べられないものを比べる文化的価値を捨てることであり、もともとの商品や職人、演奏家の価値をも認めないことになります。文化的価値が失われることは、一種の堕落です。残念ながら、最近はこのように結果にこだわりすぎて、それ以外の価値がわからなくなっているのではないかと感じます。

比べられないものを比べる面白さ、その価値、不条理さをもっと楽しむべきです。
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ネット情報を鵜呑みしてはいけない [社会問題]

メディアリテラシーという言葉がありますが、新聞などのの紙媒体からテレビなどのブロードキャストまでは、そこまでうるさく言われませんでしたが、インターネットで世界中に情報発信を誰もができる状態になってから、情報の信頼性に大きな問題が増えたためです。私達が意識的にしろ、無意識にしろ、情報を得るときには、それを鵜呑みにしてはいけないということが大前提で、そこからどういう風にすれば、情報を勘違いしないかということがメディアリテラシーです。

最近ネットでいくつか、変だぞと気になることがありました。それはネットの一つの情報がそっくりコピーされ、他の情報サイトに載せられ、さらにそこからまたコピーされて広がるのですが、その情報は間違っていたり、あるいは一面的だったり、あるいは単なる一つの見方がまるで多数派が認めているようになってしまっているのです。

たとえば、ブラシノキという名称があったのですが、写真を見るとこれは金宝樹のことでした。いつの間に名前が変わってしまったのかわりませんが、金宝樹の英語名はBrush Flowerなので、ここからそういう名前を誰かが作ったのです。なぜ金宝樹という名前の他にそういう名前を使ったのかわかりません。

また、非和声音という言葉があったのですが、これが、単に和製に含まれない音の意味ではなく、経過音や刺繍音などをまとめる言葉であると書いてあるのですが、それは修飾音という言葉であり、非和声音という言葉をそれに当てはめるのは、意味がありません。

このように、不思議な言葉がネット上にはあふれています。決して鵜呑みしてはいけません。もちろん、内容がチェックされるはずのwikipediaも同様です。

ちなみに、テレビでは、専門家と呼ばれる人が出てきて解説をする時がありますが、やはり、同様に間違っている、あるいは個人的な意見に過ぎないというものがよくあります。最近は特にネット情報を見てくる専門家もいるせいか、そういう間違い、一面的な見方が増えているように思います。専門家の話も鵜呑みしてはいけません。

また、紙媒体の辞書のようなものも間違った内容があります。たとえば、小学館の学習辞典には、アルファベットの筆記体は速く書くための文字である、と説明してありますが、明らかに間違いです。速く書くなら筆記体ではなくブロック体の方が適しています。なぜなら字画数が少ないし、結構下手に書いても読めます。筆記体を速く書くことは難しいし、下手だとなんと書いたのか読めません。筆記体は美しく書くための文字と言えます。さらには教育で使われる教材には、間違った内容もあり、昔からあるしっかりした学習塾以外のところでは勉強しないほうがいいです。間違ったことが教えられているからです。これはもともと文科省が作る内容自体に問題があり、アルファベットの書き順などというものはひどくて使えません。

アルファベットに関しては、昔から意味のないローマ字勉強など、妙な内容が教えられているのですが、最近はさらに新しい間違いが使われています。それは場所に関するローマ字表記です。新橋をShimbashiと看板などで表示するのは明らかに間違いです。それは学校で教えられるローマ字とも違います。また、アルファベットが表音文字であることも無視しています。新橋の「ん」の発音はnであってmではありません。Shinbashiが正解。

以上、個人的意見でした。これもまた鵜呑みしないように。


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PCMレコーダーあれこれ [音楽の話題]

ご存知の方は多いと思いますが、PCM録音機のRolandのR-09が出た時には、普段から練習を録音している人のほとんどはこれを持っていたと思います。SONY、TASCAM、ZOOMというメーカーが出している中で、ダントツに優れた性能を持っていたからです。それが周波数特性です。内蔵マイクで録音した時に低音が20Hzまでまっすぐに伸びているのです。他社メーカーも仕様を見ると20Hzまで伸びていますが、それはLINE入力の場合で、内蔵マイクでは100Hzですでに落ち始めており、オーケストラやピアノでは普通にある50Hzの低音はよくても6dBほどは低いレベルになるのでした。これは低音が録音されていないと感じるのに十分な差です。ノイズレベルが高いという欠点を指摘する声がありましたが、50Hzで6dBダウンするローパスフィルタをかけるとほとんどノイズレベルは気になりませんから、これは周波数特性を伸ばすことで生じた欠点だったのです。多くの演奏家、特にピアニストはやはり低音がないと音質は全く変わるので、ノイズより周波数特性でした。

私もすぐにR-09を使い始め、録音ミスを防ぐためにセカンドにTASCAMを使ったりしてました。R-09はデジタル部とアナログ部で回路を基板上で分けるなどの工夫があり、音質は良く、今の安いハイレゾ録音には負けませんし、低域が伸びている分、まだまだこれで十分です。しかし、一度バッテリー切れから起動がおかしくなった時があり、そろそろ買い替えを考えなければということになっています。あれから10年以上たった現在は、ハイレゾ全盛でPCM録音機の性能もかなり良くなりましたが、やはり一番気になるのは、この低域の性能です。後継のRolandはR-07がハイレゾ性能で、低域の特性も従来と同じように20Hzまでありますから、まずはこれが第一候補と言えますが、ネット評判などでは、このことを書いているものは全くありません。実はR-09のときも、いわゆる評として、実際に測定などもして、比較しているサイトもありましたが、ほとんどこの低域の特性は無視されたものばかりで、私などのユーザーがいいよと書いているだけなのでした。むしろすぐにわかるノイズレベルが高いから薦めないという評もあったくらいです。低域の伸びについて、R-07の特徴であると知っている人は、ほとんどいないように思えます。もちろん、個人の情報に限らず、それなりの情報サイトであれ、このことは同じです。

購入をためらっているのは、一度不具合になったとはいえ、相変わらずR-09は健在であることと、R-07自体が既に発売からだいぶ経っており、やや古いことです。Rolandがさらなる新機種を出すとは思えませんが、TASCAMも安くて良いのですが、低域を伸ばすとすると、肺臓マイクではなく、外部マイクを購入する必要があり、予算オーバーもありますが、何より準備やセッティングが面倒です。また、TASCAMなら買い急ぐこともないでしょう。結局、少し様子見、することにしました。
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朱に交われば赤くなる、は知られていない [社会問題]

「朱に交われば赤くなる」よく知られていることわざのはずなのに、実はあまり理解されていないと思います。一般には、人は周囲に影響される、あるいは仲間によって良くも悪くもなる、という意味で説明されていますが、ちろん間違ってはいませんが、それではそういうことはあるある、で終わってしまうでしょう。基本、このことわざは悪い意味で使います。つまり、どういうことかというと、交わりで人は気がつかないうちに悪くなる、これが朱に交わればが該当する事例なのです。

自分は環境なんかで影響を受けたりしない、と思っている人はとんでもない勘違いをしています。例えば、普通の思考力のある人が、幼稚な考えをする人と意見交換すると、相手の考えを理解するために幼稚な考え方を辿るようになり、これで幼稚な考え方に染まり、知らずに普段も幼稚な考えをするようになります。これが、ことわざが示していることです。交わるとは、環境と言えるほどそんなにどっぷりとつからない、単に言葉を交わしたり、話を聞いたりすることも含んでいるのです。

具体的な実際の話で言えば、突然敵国が日本を攻撃したらどうするんだ、ということを言う人がいます。そして、だからしっかりと軍備増強をしなければならないという意見です。この話をもちろん納得するのではなく、間違っているはずだと思って、このことをいろいろ考えれば考えるほど、その間違った考えの思考法に染まってしまいます。一つの反論として、防衛は攻撃技術より遅れて開発されるから、防衛ができない新兵器がある段階で攻めてくる、いくら軍備増強しても無駄だ、と反論すると、それなら先に攻撃すればいいのだ、というような、幼稚な意見がどんどん続くことになり、ますます思考法が相手と同じになってしまうのです。この意見は論理的に見えて、それは完全に一面的であり、自分の意見に都合の良いことだけを並ベています。だから、相手の意見の土俵に立たず、全くその意見とは異なる自分の見方、思考の仕方をしないと染められてしまうのです。たとえば、攻めてくるには理由があります。だから、敵国の攻撃にという話には、その攻撃する理由に対処すれば攻めてきません、という反論ができます。この場合は、そもそも最初の話の前提条件が間違っているのです。

この例では平和問題を扱っているので、本来平和とはどうやって実現できるかをきちんと考えるなら、答えは一つであるという明快さがあります。ここから離れないことが大事です。この問題をきちんと考えられない人は、説明しても理解できないので、上記のような反論をしても、反論にならない全く無意味な話をしてきたりします。ですから、反論があっても、それに丁寧に対応してはいけません。どんなに注意深くしても、どこかで相手と同じ土俵に上ってしまう危険があり、そうなると染まってしまいます。結局、朱に交わらないことが、確実に自分を堕落させないことになります。これは自分なら大丈夫ということはなく、まず、染まらない例は一つもないと言えます。

朱に交わって赤くなってしまった場合、それは本人には自覚がありません。現在、これは社会を悪化させる大問題となっています。統一協会と交わった人間は染まってしまいます。そして、その染まった人間と交わった人間も染まってしまいます。これはすでに前例があり、政治家を取材することで、マスコミはどんどん染まってしまうのです。初めは与党に批判的であった人間も、交わることで染まって与党と同じ一方的な考えをするようになります。以上は、ことわざそのものです。

統一教会と闘っている人々がいます。染まらないようにするには、この人達のように、常に法律に基づいて思考することが大事です。法律ならば、意見交換ではなく、単なる事実と法律の適用になります。相手の考えを理解する必要は全くありません。
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特別な演奏 [偉そうな一言]

音楽は人により、その受け取り方は様々です。演奏家がこういう表現をしようと思っていても、それが聞き手に伝わるかどうかは完全に聞き手の自由です。肥えた耳の人が素晴らしい演奏だと思っても、なんか眠くなったという人もいるでしょうし、耳の肥えた人が退屈な演奏だと思っても、感動したと言う人もいます。良い演奏というのは、その判断は理性によるので、本来音楽が伝える部分を理性的に処理する必要があり、同じような感銘を受けたとしても、どういう理性的判断をするかは全く個人によって異なり、さらにそれを言葉にするならば全く違う説明になるものですが、それとは別に、音楽によって感じるもの自体が人により異なるものです。ここでは理性的判断では無く、感情領域において伝わってくるものの話をします。

先日、日本人ピアニストの録音を聞きました。最初のところでリズムがかなり不正確でした。これは日本人にはよくあるタクトの不正確さが主な原因で、リズムがはまっていないのです。それでもあまり気にせず、ながらで聞くことにしたのですが、どんどん音楽が心の中に入り込んできて、いわゆる私の心の琴線に触れたのでした。そこでながら視聴をやめ、聞くことに集中しました。このように、否応無く心に直接届いてしまう、これが私にとっての特別な演奏です。

フロイトは心には意識とは別のもっと広大な領域の無意識、潜在意識の領域があると言いましたが、この潜在意識の領域も分かれており、理性に対応する部分だけでなく、感情に対応する部分もあります。いわばこれは心の琴線という言葉が一番近いと思います。音楽は本当に直接潜在意識に到達することがあり、これは音楽に限りませんが、それにヨット心が大きく動かされることがあります。

世の中には素晴らしい演奏はたくさんあり、そういう演奏を繰り返すことができる人が素晴らしい演奏家と呼ばれるのですが、そういう素晴らしい演奏が全て特別な演奏というわけではありません。しかし、一度このような特別な演奏を体験してしまうと、その演奏家に対する注目度は全く異なるものとなります。そして、前述のようにタクトが不正確、リズムがはまっていないなどの明らかな欠点があっても、それはなんらその特別な演奏には関係ありません。タクトの巧みさやリズムのハマり方は大事ですが、それよりもこの特別さこそが、人間にとっては大事な体験になるものと言えるのです。そして、誰もがそういうものを一度は体験しているでしょう。また、演奏家は有名でなくても良いし、そんなに上手でなくても、そういう特別な演奏はあるのです。

午前中に何気に弾いているピアニスト、それに合わせていつものように体を動かしていた友人達の一人が、急に後ろの方に行き、座り込みました。どうしたのかなとみんな振り返ると、涙を流し、それを抑えきれなくなったのでした。そんなにクラシック音楽が好きなわけでもないのに、自分でもなぜこうなったのか、わらなかったのでした。

モーツァルトが演奏会を開くと大盛況は間違いなかったと言われています。パガニーニも人々を熱狂させました。多くの人はパガニーニの素晴らしさはそのテクニックだと思っていると思いますが、そうではないでしょう。テクニックが素晴らしいのではなく、演奏そのものが特別なものだったのです。モーツァルトのその特別な演奏を聴いたら、もう虜になってしまい、聞かずにはいられないのです。

しかし、人々に特別な演奏と感じてもらえることを目的に演奏してはなりません。なぜならそれは聞く人により異なるので、目的になりえません。それこそ音楽以外のものを持ち込んでも、聞き手は大満足したりするものです。演奏家が目的とするのは、音楽的価値を表現することだけです。モーツァルトやパガニーニの演奏は、もはや誰も知りませんが、そういう演奏は存在するものなのです。


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クラシックバレエに個性はいらない [偉そうな一言]

連続で深夜アニメからの話です。ダンスダンスダンスールというアニメでバレエの大先生が、クラシックバレエに個性はいらないと、自由に踊りたがる主人公に言います。

個性を出そうとする人は多いです。また、もっと自分らしさを出せ、ということを言う人もいます。これは、個性はいらないと、一見対立する意見のようですが、実は全く同じことを言っているのです。もちろん、そうではない意味で言っている人もいるので、あくまでも個人的な考えです。

アーティストが追求する美についていえば、法則のようなものは明確には規定できないでしょうが、言葉があるということはそれに対応するものがあるということです。そして、その美を表現するときに、個性は全く必要ありません。しかし、たとえば、モーツァルトの音楽を演奏する場合を例にするならば、多くの演奏家が経験するのは、モーツァルトと真剣に取り組むと、見えないものが見えてくる、聞こえない音が聞こえてくる、ということがあります。しかもそれは、同じ曲であっても何度もそういうことがあります。つまり、いかにテクニックが完璧でも、モーツァルトの曲を完璧に演奏することなど、誰にもできません。常にまだまだ発見していない価値があるのです。そして、その完成度、不完全性は、人により、その人の年齢により、異なります。それを個性ということはできるでしょう。逆に言えば、真剣に取り組んでいる人ほど、その人らしさ、その人の個性が自然に出るものなのです。そしてそういうものがない場合、それはまだまだ未熟であるか、または、相当な完成度かどちらかです。当然若い人は未熟で、もっと真剣に取り組むことで、ようやくその人らしい演奏となるのです。

しかし、初めから自分らしさを出そうとすると、それは他人には関係ありません。自分が美と考えるものが美である、まではいいのですが、自分らしさには美は原理的に全く関係ありません。だからそこを目標にすることは、ずれています。クラシックバレテに個性はいらないのです。真剣なアーティストはもっと先の美を求め、自分らしさよりも普遍的なものへと近づいていくものなのに、自分らしさにこだわるのは、逆方向です。身体の動きを表すダンスにおいて、自由な振り付けでやっても美は表現できますが、大事なことはそこに個性を持ち込むことではなく、普遍的な美を表現することです。だから自分の振り付け、自分の曲であっても、そこには個性を突き抜けて普遍的な美があるものなのです。それが振り付けや曲となることで個性はやむを得なく、自然に現れているだけなのです。

以前も述べましたが、クラシック音楽において、全くお互いを知らない大演奏家二人の演奏が似ている、のは偶然ではなく、必然なのです。一つの曲に真剣に取り組むことで多くの価値が表現され、それによって個性の要素は徐々に隠れるようになり、美そのものに近づいていくのです。

最近は個性が尊重されるようになっていますが、それは美とは関係なく、今までが単に個人の尊重がされていなかったことを示しているだけです。優れたアーティストは個性よりも先にある価値あるものを目指しており、それだけで既に十分個性的であるのです。



以上です。
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ヒーラーガールというアニメにある音楽の価値 [偉そうな一言]

前回に続き、アニメからの話題です。
ヒーラーガールというアニメが放映中。歌で治療する話です。音楽の力を扱うアニメはマクロスがありますが、ヒーラーガールは戦いではない、治療の話です。音楽の力は歴史にもあるように、権力者や知識者によって重要視されてきました。そして、日本でも戦後活気にあふれていた時代には、良い音楽が溢れ、人々の心がそれによって調和をもたらされていました。だから、今でも昭和のこのころの歌は人々によって愛されています。若者はフォークソング、年配の方には歌謡曲、そしてちょっと外国の歌を知っている方々は洋楽が楽しまれていたのです。

現在、音楽治療という分野がありますが、まだまだ一般に認知されているとは言えないでしょう。ヒーラーガールはアニメですが、音楽が治療をするというもので、個人的にはそれは空想ではなく真実を含んでいると思っています。なぜなら人間の免疫力はものすごい力を持っており、それが正常に働けば、奇跡とも言えるものなのです。プラシーボ効果についてはよく知られていると思いますが、これはよく効く薬だよと言われて飲み、実際によく効いて病気が治るのですが、その薬は単なるビタミン剤でしかない、ということがあります。信じることで治ってしまうのです。なぜ治るのか、それは免疫機能が働くからです。精神状態で免疫力の働きが変わるのです。ですから、それを落とすような不安や病気への恐怖を与えることは人を不健康にします。今はそういうことが普通に行われていますので、そういうことを感じたら見ない聞かない、そして言わないのが一番です。さらに、現在の人間の免疫力が弱いのは、原因の一つは食物です。免疫に必要な栄養素がきちんと摂れていません。

音楽の力は精神状態の改善だけではありません。良い音楽にあふれている時代は、前向きな考えや協力的な姿勢が多くなり、否定的考えや対立傾向は少ないのです。音楽は思考や知性の発達にも良い影響を与えるのです。それを知っていれば、単なるエンターテイメントで終わるはずはなく、もっと音楽の価値を高めるようにしたくなるでしょう。

歌手を主人公を扱ったアニメも人気がありますが、その中で、歌に本人らしさがない、というようなくだりがありました。アニメでなくても、実際にこの歌手のここがいいとか、これが彼女の特徴だ、という話は業界の有名人からよく言われる言葉です。しかし、この意味は歌には個性を出さなくてはいけないという意味ではありません。なぜなら、何も考えなくても、そこにある歌を歌えば、人により全然違うものになります。その段階で既に個性は出ていて、歌が上手ければ上手いほど、それをなくすことの方がはるかに難しく、また大事になります。あえて歌で自己表現をする必要はありません。昔、大バイオリニストのアイザック・スターンがある録音、昔ですから今より性能が低いものですが、それを聞いて、これは自分が弾いているみたいだ、と言いました。ところがそれは実際はダヴィッド・オイストラフの演奏で、二人は接点がないので、同じような演奏になるはずがないものでした。これは名演奏というものはそういうものだということが言えます。つまり演奏家が完璧にその曲と向かい合い、極めていくと、ほとんど同じような演奏になるのは普通のことなのです。完璧な演奏は全てがあるので、逆に個性的なものがないのです。もし、自己表現や個性を出すことをやってしまうと、その音楽の価値はそれだけのものになってしまいます。歌に本人らしいところがないという話は、つまりは、何も音楽に対してアプローチしていない、単に声を出し、音楽の価値を自分なりに把握して歌っていない、という意味なのです。きちんと音楽に向かい合うならば、個性が出てしまうのは、必然であり、現実にはそれをなくすことはできません。それがないのは、その音楽にアプローチしていないからなのです。

歌で自己方言をしようとすると単に歌の価値が少なくなるだけではなく、それは初めは上手とか、素晴らしいという評判をもらうので、そのために自己顕示欲が強くなっていくという危険性があります。それは音楽とは全く関係ありません。音楽で自己実現は、前述したように目指すべき音楽の逆方向に向かうことを意味します。音楽に真剣に向かい合えば、誰でも個性的にならざるを得ず、その方向を進めればいわばどんどん純粋な音楽に近くなり、個性はどうしても残っていても誰もが共感する普遍性と強い音楽の力が発揮されるようになるのです。むしろ個性を出そうとすることは、不執拗な物を付け加えることで音楽の価値は損なわれてしまうことになる、と思います。もっと自分らしさを出せ、は音楽へのアプローチが全く見えない、という意味なのです。
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勝つことに専念してはいけない [偉そうな一言]

日本のアニメにはつまらないものもありますが、びっくりする内容で、大変面白いものがあります。今度映画上映されるからか、深夜にやっている「ツルネ」には驚きました。ややネタバレがあります。

高校生の新しく作られた弓道部が大会で思った成績を出せません。コーチは勝つことに専念してはいけない、ということを生徒に言うのです。高校生の大会はとにかく的に当たった数で点数が決まるので、それ以外の弓道のなんたるかというか、形などは点数には関係ありません。そして強豪校では、構えたらすぐに射る生徒もいたりします。最低限の形があればいいのです。この強豪校の部員からけしかけられて、主人公の高校は思っていた結果を残せないので、勝とうとするなと言われるのです。

これは勝負事ではなく、芸事でも似たようなものがあります。点数などを競うのではなく、いかに上手かを競う芸事、音楽ならコンペティションでは上手に弾けばいいのだから、という話になりますが、明確な判定基準があるスポーツなどと違って、芸事では上手を目指すこと自体は悪いことではない、という理屈もありそうですが、上手というのは点数と違い、人により基準が異なります。それは素人だけでなく、審査を行う先生でもあります。また、音楽は広い意味の感情、感性に訴えるものなのに、上手ということは理性的判断であり、初めから理性的判断となる上手を目指しても、それは目標が間違っているのです。コンペティションで良いとされても、本当に良い演奏なのかは別問題なのです。

しかし、運動競技では点数を高くしようとすることがなぜいけないのか、というのは、アニメを見て各自がその理由を判断してもらうといいと思いますが、弓道では、点数を求めることは意味がありません。弓道の価値は的中を目指しながら、やはりそこよりも別のところにあります。山登りでは山を登るという目的とは別のところに山登りの価値があるのと同じです。最近は、この違いに気づかない人が増えているように思います。勉強は点数が取れればいい、という観点から勉強することで点数が取れるようになります。従来は、塾はそういうことをしているという批判がありましたが、今は教科書自体、学校の勉強自体がそうなっています。物事の価値をどう考えるかは自由なのですが、そういう勘違いしたままで良い、という風潮が全体にあり、昔は反対でどこまで行っても自分の理解はまだ未熟である、というのが当たり前だったのとは全く反対になっています。

さて、お笑い芸人が、こういうことを言っていました。ボケとつっこみという技法がありますが、番組で予期しないようなボケを言い、それを別の優秀な芸人が突っ込んで大笑いになる、このとき突っ込んだ方だけでなく、ボケた方も評判良くなるのですが、その二人は普段から一緒に仕事をしているわけではなく、そうなるとボケの方が得をします。なぜならツッコミを意識せずめちゃめちゃなことを言っていけるからです。さらにこんなことを言っていました。お笑いの正統な方向でお笑いを取るグループがいるから、今までにないめちゃめちゃことをやっても評判を取れる。確かに今は受ければ良いという風潮があり、笑いの価値、笑いが精神に与える左往とは何か、ということがなおざりにされているところがあります。

音楽でも、お客さんに喜んでもらえるように演奏する、と言う人はいますが、これはお客さんが喜んでもらえることを目標にしていることを意味しているわけではありません。お客の満足を目標にすることは、商業主義に直結しています。ですから、チケットが売れることを目標にするように変わり、チケットが売れることでお客は満足していると判断するようになります。こういうことは、音楽の持つ価値を無視しており、その結果、現在、音楽本来の持つ影響力が無視されたものがかなり多く見られます。

本当に価値あるものの、その価値の全体を知るには一生あっても足りません。しかし、弓道であれ、音楽であれ、一生かかってその道を進めば、それはその価値を少しずつ人々に広め、また自分にもその価値が少しずつもたらされます。それは本当に素晴らしいものだと思います。
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